好きなものは呪うか殺すかしなければいけないのよ

 というような台詞が安吾の『夜長姫と耳男』という短編の中にあって、中にあるというか確かこの台詞で終わるか、終わりの間際だったように記憶しており、これが妙に好きで、なぜ好きなのかと言われると全然分からない。好きなものはいやあこれは好きだなあよしよし好きだ好きだ愛してるぜと思っていればそれでいいんじゃないか、別に呪ったり殺したりしなくていいんじゃないか、とまあ思うわけなのですけれど、それでも本当に大事なもの好きなものには鍵を掛けてしまっておきたい、人目には触れさせたくない、これはおれだけのものだ、おれだけのものにならないのならば呪ってやる、そうだ殺してしまえ、そうすればおれだけのものになるのだ、みたいな感覚は分からないでもなく、またそれだけならよくある話で、愛ゆえの殺人だなんて珍しくともなんともなく、そこらへんにそういうモチーフをもった小説なりマンガなりはゴロゴロしているわけなのだけれど、そういうものを読むにつけて「またか」と思うこと限りなく、「安っぽいなあ、いい加減にしろよ、殺せばいいってもんじゃないだろ」と呆れた気持ちすらするのだが、それでも安吾の『夜長姫と耳男』のこの台詞は妙に好きで、それというのもこの台詞単体で好きというよりか、物語の文脈の上で好きということなのだろうと思うわけなのだけれど、その物語の文脈というものがよく分からない。
 物語の舞台は平安だかそこぐらい。平安がどんな時代だったのかというのは全然詳しくない。手塚の『火の鳥』の茜丸とかの時代、あれの時代設定は平安だったか、奈良の大仏が建てられるのだよね確か、それだったら平城かもしれない、歴史は全然分からない、ともかく仏師とかが出てくる。いちおう仏教はもう根付いているということになっている。「外来仏教の神々と産土神の戦い」みたいなのは『火の鳥』の別の巻にあった気がする。よく考えると日本の歴史を『火の鳥』で把握しているような気がする。すばらしいことだ。それでその耳男はさる高名な仏師の弟子で、さる長者に招集される。彼の人が言うには「娘の夜長姫の成人の祝いになにか作れ」ということで、当時の名人たちのコンペティション、勝った者には褒美としてそれはそれは美しい女をくれる、耳男はその女を前にしてお前なんぞいらんわ、おれはただ自分の腕で自分の作で目にもの見せてやる、そういう気持ちで、食って掛かるのだが、その女が怒るわけである。なんかだるくなってきた。まあ色々あって、耳男が勝つわけですそれはまあ当然に、夜長姫はちょっと頭がおかしい女で、それはそれは美しいのだけれど、頭がおかしい、人の生き死にとか動物の生き死にとかはどうでもいい、クール、よくありますね、猟奇的な彼女、それで耳男がその夜長姫をまあ色々あって縊り殺すということになるわけですが、そこで夜長姫がこの台詞を吐くのです。耳男は全然そういう、姫に対する好意なんてのは見せず、恐怖・畏怖・憎悪みたいなのは語られるわけなのですけれど、この一言でそれが腑に落ちる感じがある。ものすごく嫌いな女に「嫌いってことは好きってことよ」と言われるような感じでしょうか。なんという自惚れだろう。でも悪い気はしない。私は美人という生き物が苦手ですが、その一つの理由に「あなたも私のことが好きなんでしょう?」みたいな自惚れを感じることがあるからで、それがたまらなく嫌なのだけど、それはどう考えても真実で、美人とやりたいのは男の性というものですから、その指摘はとても正しい。身も蓋もないことだが、美人とセックスがしたい。ただその欲望はあまりにも安易で、人間がそんなことでいいのか、大事なのは見た目ではなくて性格だよそうだよ! 人間の価値は見た目じゃないんだよ! おれはそういう人間らしい精神をもった人間ですから、美人とやりたいなどというあまりにも動物的な欲求に忠実に生きている奴を軽蔑していますから、という気持ちでもって、美人のまったく正当な自惚れを毛嫌いする。しかしそれは事実なのですよ。美人とセックスがしたい。事実です。「あなたも私のことが好きなんでしょう? やりたいんでしょう?」まったくその通りです。好きなものは呪うか殺すしかないのよ、という完璧な自惚れをほざく夜長姫が好きです。