猫の手さえも借りたいくらい

 あややのANNは死んだ。リスナーの声が松ペン先生のコーナーに出演するようになってからあややのANNは死んだのだ。私はあややの声を2時間丸々聴きたいがためにラジオを聴いているのであって、番組的な面白さや、リスナーへの配慮なんてものは全くいらないのである。むしろ番組という形態を取らずに、あややのポケットにマイクを仕込んでおき、それに録音された様々な会話や生活音、それは即ちあややの屁とか放尿とか或いは脱糞などと言った音ですが、それを垂れ流すというだけでも構わないのである。何を思って男のリスナーのあんなへぼい声を聴かなければならないのか。「俺のフォームを見て練習しろよ」苦痛である。しかも番組中にこのへぼい声を何度となく流すのである。あややはソレに対して失笑という形でリアクションを取るのである。ジェラシーを感じざるを得ない。声というのは一種のアイデンティティーの表出であるから、あややがそれを聴いて失笑するということは、あややがそのリスナーを一個人として認識したということである。あややに認識されていない私と、あややに認識されたそのリスナーとの間には、大きな隔たりがある。僕は嫉妬する。受動的なリスナーと能動的なリスナーに差があることはやむを得ないことではあるが、メールや手紙などの文字メディアによる認識とは違って、声による認識である。声とは生の伝達である。それが例え時間軸から切り取られ、レコーダーに録音された音声であっても、アイデンティティーが深く刻み込まれているのである。私はそのリスナーに嫉妬する。ジェラシーである。ここまでのことを端的に言い表すと、あややはそのリスナーの男根を根元までずっぽり咥え込んだも同じなのである。私はあややのラジオを聴きながら、一方的にディープキスやクンニリングスに励むことしか出来ないのである。一方的におっぱいを揉むのである。一方的にうなじを攻め立てるのである。双方向性の欠如!私はANNに負けたのである。しかも積極的に負けたのではなく、極めて消極的に敗北したのである。例えるならば早稲田の入試を受けて落ちたのではなくて、そもそも受けなかったようなものである。しかもその時、私には悪の組織によって願書を手に入れることすら叶わなかったのである。あややのANNは死んだのだ。しかし死んでしまったとは言え、聴かないでこの世知辛い現代社会の1週間を生き抜ける自信が無い。だから私はあややのANNが死んだと分かりつつも聴かざるを得ない。これは2重の敗北である。あややのANNは奴隷道徳なのである。あややのANNは死んだ。本谷有希子のANNを聴こう。あれは超人だ。本谷有希子先生のヤレる日本語講座。是非聴くべきだ。聴いてください。
 大学に入ったら家庭教師をやりたい。れいなのようにちょっとギャルっぽい処女に勉強を教えたい。腎臓の仕組みを教えたい。原尿がいかにして再吸収され尿へ濃縮されていくか、その過程を徹底的に教え込みたい。それが完璧になったら次は遺伝について教えたい。メンデルの遺伝の法則からはじまって、ショウジョウバエの伴性遺伝についてねちっこく教えて生きたい。「いいかれいな、ショウジョウバエはXY型だ。どういうことか分かるな?」「よく分からないです」「さっき教えたばかりだろう、じゃあもう一回説明するぞ、XとYというのは性染色体でな、XXがメスでXYがオスだ。覚え方はな、Yの方にはちょっと余分なものがついてるんだ。よく見ろ、ほらここにちょっと余分なでっぱりが付いてるだろ。だからオスだ」「よく意味がわからないです」「だからな、オスについてる余分なでっぱりって言ったらアレだよアレ」「え?」「分からないか?」「はい、よく分かりません」「そうか困ったな、あんまり言うとセクハラになるしな、暗に分かってくれるのが一番いいんだが。しょうがない、れいなのために人肌脱ごう」そして僕はパンツを下ろし己のそそり立った陰茎を握り締め「いいか、Y染色体のでっぱりはちんこだ!おちんちんだ!」と叫んで、れいなは泣きじゃくり、異変に気付いたれいなママに通報されて逮捕。そのまま獄中で短い一生を終える。そういうのがいい。