ファーストキスはハニーパイ

 ミキティのおでこを舐めまわしたいんだけど、この希望はどこに言ったら叶えてもらえるのだろうか。さすがにミキティ本人に直接言うのははばかられるし、もし直接ミキティに言ったとして「こいつキモイ」って思われても嫌だからなかなか言えないんだけど、そもそもミキティは多分俺に対して好きとか嫌いとかいう感情は抱いてなくって、そういえば昔偉い人が言ってたけど「好きの反対は嫌いじゃない、無関心だ」この言葉にはものすごく同意する。その言葉の概念が存在するということは、それの否定形としての逆の概念も存在するということで、例えば「平和」という概念がある以上「平和ではない」即ち「戦争」という概念も同時に存在して、それは人間が万物の尺度であって、プロタゴラスだかヘラクレイトスだかなんだったか忘れたが、「平和」を高らかに叫ぶということはその逆の概念である「戦争」の存在を痛いほど叫ぶことにもなる。だから平和主義者ほど戦争論者は居ないし、意識するということはそういうことであって、他にも「平等」という概念を叫ぶことは「差別」という概念をやっぱり同じように主張してしまうのであるからにして、「差別の無い世の中を!」というスローガンは「平等」を主張しているのではなくて、ただ「差別」という概念の存在を世に知らしめているだけにすぎない。ニュースである事件の報道をする。するとそれの模倣犯が現れる。ニュースは別に模倣犯を出現させるために報道しているわけではないのに、ニュース故に起きなくてもいい犯罪が起こる。知らないということは幸せなのです。同和教育にしても、私達の世代は部落差別の存在を身をもって知っているわけではない。なのに学校は「真実を教えなければならない」と言っては差別用語を教えて、教えた上でその言葉を使うなという。無理だ。オナニーを教えられた猿は死ぬまでオナニーをする。子どもは新しく与えられた「差別」というちょっと危険な香りのするツールに夢中になって、差別用語を連発する。それがまだただの遊びのツールとなっている内はいいが、三つ子の魂百までとは良く言ったもので、幼い頃に植え付けられた差別という考え方はその人間の人格形成に大きく影響を及ぼす。俺は白痴という言葉を良く使うことがあるが、それは差別だとかそのようなことではなくて、その事象をただ指している。白痴はこの世で一番幸福な状態だと思う。ニルヴァーナとは白痴のことだ。
 で、話が反れてしまったのだが、ミキティは俺のことを知らない。知らないということは悲しむべきことでもあり、また喜ぶべきことでもある。無関心をプラスに捉えるか、マイナスに捉えるかという違いなのだが、「俺はミキティに知られてないから、何やったってミキティに嫌われることはないんだぜ、ひゃっほう!」という考え方をするか「ミキティに知られてなきゃ、ミキティが俺のこと好きになることも有り得ないじゃん!俺ってば容姿にも人格にも自信あるのに超残念!」という考え方をするかの違い。私はプラス思考の人間なので、この事態に関して、ミキティが私のことを好きになる機会が無いという捉え方をする。だから不幸なのはミキティなのであって、私のようなベリーベリー人格者に出会えないことをまずはミキティが悲しむべきだと思う。そんなことを言って自分を慰めても、私とミキティは恐らく出会うことがないという事実は何も変わらない。ここまで書いてきた文章は不毛だった。
 でもここは電脳空間、電脳空間だから何でもできる。脳みそさえビンビンに回転していれば何でも出来る。何のために私の脳髄があるのかというと、まず一つに大学に合格するため、そしてもう一つには空想に遊ぶためにある。だから、私がミキティに会ったとまずは仮定してみよう。「いや、そりゃ無理だよ」とか「有り得ない」とか「わからない」という前に、まず仮定してみること。例えるなら「ののたんはブサイク」という命題。これは絶対に有り得ないのだけど、まずは仮定してみることから全てが始まる。その視点に立って初めて見えてくるものもある。だからもし「ののたんはブサイク」だとすると、どこがどういう風にブサイクなのか?とか、ここをこうしたらもっと良いのではないか?という風にどんどんと話は発展させて行くことが出来る。それを「ののたんはかわいい(∵明らか)」こういう風にしてしまうと、どうだ。「ののたんってかわいいよね」「うん、そうだね」「……」「……」「日暮里?」「いや、国分寺」想像するだけで「かわいいよね」「うんそうだね」の後に訪れる無言の絶対零度が身に刺さるようです。
 まず「ミキティは俺のことが好き」と仮定してみる。当然私は嬉しい。ミキティもきっと幸福なことだろうと思う。僕のような人間を好きになれるなんて、よっぽどの幸せ者だなこん畜生、羨ましいぜ、だってもし俺が女だったら、やっぱり男の俺と付き合いたいと思うもん。なんてね。ごめんなさい。嘘を言いました。やっぱり僕が女だったらごっちんと付き合いたい。ごっちんに乳首舐められるとか想像しただけで逝ってしまう。しかも女の乳首は男乳首とは比べ物にならないほどの性感帯。ごっちんはテクニシャンだからきっとものすごい舌技を持っている。当然レズなわけだから乳首を舐め合うだけど終わるはずもない。貝合わせとか、双頭バイブとか、色々とプレイにも幅が有る。男×女のように、穴に棒を出し入れ、というプリミティブな営みなんかよりよっぽど刺激的だ。視覚的にも女と女が合わさっているのは実に美しい。エロスか?と言われるとそうではない気がする。ただ美しい。三島由紀夫のようなことを申せば、由紀夫ちゃんが男の逞しい筋肉に感じていたような感情を、私はレズビアン同士のプレイから感じることができる。由紀夫ちゃんはその逞しい男の胸板に抱かれるところを想像してオナニーをしていたらしいが、私はそう即物的じゃない。女の俺がごっちんと抱き合って貝合わせとかしてる様子をビデオに撮って、そのビデオを見ながら男の俺がオナニーをする。その様子を想像してオナニーする。話がややこしいが、女の俺はごっちんの愛撫に直接感じるのではなくて、その愛撫から来るであろう快感を想像してオナニーをするということです。だからちょっとまどろっこしい。素直にごっちんにフェラしてもらいたい、とか思えばいいんだが、それはちょっと許せない。何故ならごっちんは私の義姉だからだ。近親相姦はいけないと思う。興奮するけど。
 今日はよく話が反れる。ミキティは俺のことが好きという仮定。俺はミキティに言う「俺もお前のこと結構好きだよ」「ホント?」「ホントホント」「なんか2回言うと嘘っぽく聞こえる」「ごめんごめん」「もー、だから2回言わないでって言ってるじゃん!」「ハハハッ」「うふふふっ」幸福そうに笑って目を閉じているミキティのおでこにそっとキスをすると、ミキティはちょっと驚いた顔をするけど、すぐに嬉しそうな顔をする「唇にもしてよ」「いいよ」チュッ。それが俺のファーストキス、ほんのりとハニーパイの味がした。「じゃあまたな」「え?」「希美に告白してくる」そう言って無責任に去って行く私の後ろ姿を見ながら、怒りとも悲しみともつかない表情で呆然としているミキティのおでこを、俺は舐めまわしたい。俺の唾液で臭くなったミキティのおでこにネギをこすりつける。ネギティ。それを用いて納豆を食べる。美味。そのネギには、ミキティの悲しみと俺の希望が詰まっている。新メンバーの久住小春ちゃんはそのネギでおみそ汁をお母さんに作ってもらう。「おかーさーん!これちょっとしょっぱすぎるよ!」俺とミキティのラブジュースは小春ちゃんにはまだ早すぎる。かわいいよね小春ちゃん。中学一年生。オナニーって何?という質問を、ちょっとオマセな女友達や、ちょっと仲がいい男友達に尋ねるお年頃。俺がその尋ねられた同級生だったらこう応える「給食費のことだよ」知らないことは幸福なことです。