赤いフリージア

 m-seek企画やってることを知った時既に遅く、投稿は締め切られていて、まあしょうがないから感想だけでも書くかと思いあれこれ考えながら書いていたら俄然ハロプロ熱と申しますか、むしろ娘。小説熱とでも言うのですか、それが再燃いたしまして、徒然に書きますが、ぼくが中高浪人とハロプロに入れあげていたのは、ほとんど娘。小説のせいであって、それは具体的に言うとシアターとかカテキョとか導かれし娘。とかエスパー真希とかナノの歩みとかバトロワものとかそこらへんのせいで、それゆえ現実に生活を営んでいる彼女らの人間性とかはどうでもよろしかった。見た目と、声と、彼女らの体のむちっとしているとかケツがエロいとかいった質感や、かわいらしい身振りや、いささか妙な言葉遣いなど、各種メディアを通して垣間見えるそれらから、ぼんやりと構築されるキャラクターが全てでありました。それはつまりこっちが手前勝手に想像しでっちあげるものであって、テレビ画面に映る中学生かそこらの後藤さんがふにゃふにゃへらへらしているのを見て、「なんだかてきとーそうな人だ、普段からいつもふにゃふにゃしてそうだ、何にも考えてなさそうだ、悩みがなさそうだ、かわいい」とか思うわけなのだけれど、実際そうであるかは分からず、もしかすると普段は実はものすごくテキパキした人であって、他人の不正などは決して許さない正義の人であるのかもしれず、クソいけ好かないクソ女「あなたは間違ってるわ」とか、なのかもしれなかったが、いくら想像してもそれは結局想像であって、実際の彼女と会うことはまあ叶わないだろうし、仮に叶ったところで「想像と違う」か「想像通り」か、そのどちらかであって、それはやっぱりぼくが勝手に抱く印象に過ぎないから、それに対して「ああ、僕は本当の彼女のことなどなんにも分かりようがないのだあ!」と悲しみに暮れたって別に構わないと思いますけど、別に、なんか普通に人間関係というのはそういうものだろうし、自分の好きなような印象を好きなように抱いていればもうそれで良いというか、芸能人とかアイドルとかいうものは、もうほぼ絶対に近い関係になりようがない人たちだから、勝手にイメージを膨らませることができて、それが面と向かって否定されることも肯定されることもなく、これはすばらしく理想的というか、甘美と申しますか、自分の考えが決して否定されない桃源郷でありまして、酒によっぱらった万能感や全能感を、シラフで感じつづけることができる、イメージだけを抱いている限り、彼女の言動やまた存在すらもぼくの所有物であって、彼女にとって、ぼくだけが全てなのでありました。ぼくが彼女らに興味を失ってしまえば、いかに現実の彼女らが生き生きと楽しく生きておりましょうが、ぼくにとっての彼女は死んでしまうも同然なのであります。だから必死にしなしなしおしおして、彼女らはぼくの興味を引かなくてはならないし、ぼくも彼女らに興味を失わないように、殺してしまわないように、大事に扱ってさしあげないといけない。これはもうなんとすばらしい人間関係なのだろうと思った。彼女らにある意志はぼくに好かれることだけであって、つまり、現実の彼女らの本当の人間性とかいうことはどうでもよかった。そんなものはむしろテッテイテキに排除するべきだ。と、改めて、何度も繰り返し申し上げる。