ボツ原稿

 とある討論番組で「幸福について」が議題になっていたらしい。私は見てはおりませんでしたが、友人が要約するには「幸福とは主観的なものか客観的なものかの平行線」な議論であったらしく、彼のそれに対する感想は「クソだ」というものでした。「大体あんなアホみたいな討論でギャラをもらえる身分が幸福なのだ」なるほど、と思わないでもなかったが「それじゃあ幸福は客観的なものだという立場なんだね」と茶々を入れると、それは違うと彼は鼻息を荒く致しました。幸福は主観的なものだ。どんなに貧乏だろうと、今日明日の命も知れぬ身であろうと、その人が幸福だと感じれば幸福なのだ。他人がどうこう言えるものではない。しかしそれでは矛盾するではないか。君はその番組のコメンテーターを幸福だと断じたではないか。それは、と彼は口ごもった。「おれの目から見ると、彼らはおれよりも幸福だし、おれは彼らよりも不幸なんだ。これはおれの価値観であって、彼らがどう感じているかは関係がない。おれが、そう感じた、という話だ」
 そういうお前はどうなんだ、と彼は食って掛かった。ノーコメント、と答えると、ずるい、と言った。そういうのはフェアじゃない。そう言われればそうかもしれない。でも、コメントのしようがなかった。私の口から出る全ての意見は私の主観であり、幸福は主観的なものだ、と言おうが、幸福は客観的なものだ、と言おうが、それは全て「私の主観において」という但し書きがつくのです。全てのものは私の主観的なものでしかありえない。だから、幸福は主観的か客観的かなどというのは、ほとんど無駄な議論に思われました。無駄というか、どちらでも構わない、と思った。それぞれがそれぞれの信念で幸福というものを捉えれば良いし、どちらが正しいのかということに興味はありませんでした。きっとどちらも正しいのだろう。一般論として、「幸福は主観的なものである」という言説にも、「幸福は客観的なものである」という言説にも、どちらにもある程度の説得力は感じておりました。だから、本当に「どちらでも構わない」と私は思いましたし、言った。
「お前は本当にずるい奴だ」
「そうかな。おれはそうは思わないけれど、お前にとっては、そうなんだろう」
「本当にずるいな」
 どの幸福論が正しいのか、ということに興味はありませんでしたが、他人の幸福論を聞いたり読んだりすることは面白かった。真偽の判断はしないが、好き嫌いは当然あります。そして友人の幸福論は私の好みではありませんでした。つまり他人の境遇と自分の境遇とを比較し、それに順序をつけるタイプの幸福論であります。上を見れば上を見た分だけ自分より恵まれているかのような人がいるのは当然であり、逆もまた然りなのだから、常に自分の幸福というものは相対的で、安定しない。それゆえどこかしら僻みっぽくなるし、賢しらにもなる。僻むのはしんどいことです。賢しらさを繕い続けるのも、しんどいことです。それに醜い。だから、私はなるべく僻んだり賢しらぶったりするまいと考えておりました。行雲流水、明鏡止水の境地を目指しておりました。
 とはいえ、それはなかなかに難しいことでございます。現に私はこの友人のことを少しバカにしていたのです。明晰そうなふりをして、実のところただのバカなのです。彼は。小賢しいところが、いよいよもってバカっぽかった。彼を下に見ることで、優越感を得て、幸福を感じておりました。そういう自分の卑俗さが嫌で、自分の至らなさを自覚して、まだまだだな、などと考える賢しらぶったところも、汚らわしく感じられました。おれは醜い、と思いました。それがナルシスティックな自虐であることは承知しております。自分を貶めることで幸福を感じておりました。つまるところ、私が実践している幸福論というのは、常に自分を呪い蔑み貶めて、他人より下に置くことで、逆に他人を高みから見下ろすというものだったのです。自分を呪えば呪うほど幸福になるという、酔拳にも似た幸福論だったのであります。行雲流水や明鏡止水など程遠い世界である。だから、彼が言う「お前はずるい」という言葉は完璧に的を射ておりました。耳が痛いほどです。それを否定したのは、見栄です。その見栄はとても醜く、私は私を嫌悪しました。呪った。それが幸福だったからであります。