後藤真希

 ドリームモーニング娘。の新曲MVとMステのメドレーを見てとてつもない幸福感に見舞われたものの、一抹の寂しさを覚えるのはごっちん辻加護がいないからで、それを埋め合わせるべく2005年紅白の、あの2005年紅白、現役とOGが入れ違い混じり合いながら披露した極楽もかくやと言うべきラブマを見て、やはりごっちんだ。辻加護も大事だが、もはや成人女性、子どもでない辻加護に一体何の意味があるのだろうという気がした。二児の母であり誰かの嫁である辻と、なにやら訳の分からんことになってスキャンダルしか叩き出さない加護、彼女らが今この期に及んで同じステージに上るとなればそれは一つの感動ではあるのだが、しかしそこでまざまざと突きつけられるのは幸福と不運の絶望的な対称性であり、そんなものを私は見たくないのである。
 avex移籍後のごっちんのMVを二本見る。聞く。ごっちんが本気を出せばかっこよくてセクシーなのは当たり前だ。なんとなれば後藤真希は常に正しく、正義だからである。ただあまりにも真面目に、かっこよく、セクシーでありすぎて、つまらないのだった。そういうごっちんが見たいわけではない。常に正しくかっこよくセクシーであるごっちんが、つんく♂の作るふざけた曲を本気で歌い、ふざけた振り付けを本気で踊るのが、かわいらしく、すばらしいのである。普段授業などを度々サボり、反抗的なところがクールでカッコイイヤンキーギャルが、体育祭では何故かはしゃぎ狂い、率先して団体を導くような、そういうかわいらしさ、こどもっぽい一途さと一貫性の無さが、ごっちんごっちんたる所以であり、ドリームモーニング娘。に感じる一抹の寂しさは、主にごっちんによって象徴されるこどもっぽいかわいらしさの無いところだった。大人の女のセクシーさなどどうでもよい。大人の女がセクシーなのは当たり前なのである。大人の女のかわいらしさこそが見たい。セクシーなアイドルなどどうかしている。アイドルはかわいらしいものだ。アイドルはポルノじゃないんだ。かわいらしさなのだ。