2/25

 起きたのは昼、後輩からお暇なら今日の映画見に来てくださいねというメールがあったのを思い出した。というのは嘘で、覚えていたのを忘れたフリをしていて、それをもう一度改めて思い出し直し、もう行く気はないのだから「行かない」と返信してしまえばいいものを、しかしいくらなんでもそれはぶっきらぼうに過ぎないか、わざわざ誘ってくれているのだから、今からでもよし行くぞと気合を入れれば行けないことはないのだから、どちらかといえば私は当たり前にそれに行くべきだし、そもそも返信は速やかに為すべきであったが、しかし後の祭り、そしておれには金がない。いや、それもまた嘘で、金はあったが使いたくない、というのが本当のところでありました。いやそれもあまり正確ではなく、もう少し具体的に突き詰めて言えば、今現に金は手元にあるし、使っても当面問題は無いのだが、数週間後のゆくゆくの出費を思えば今の手持ちの金では全然足りず、そしてその金は日常生活によって目減りしていくことは確実であり、なおかつ収入の見込みはあまりなく、しかしながらバイトを始めたり、いざとなれば親への無心などの心が痛むことによってどうにかなってしまうだろう。つまり、どう転んでもどうにかなり、どうにかなる以上別に映画を見に行ってもいいわけだが、おれは今まさにどうにも転びたくない、何もしたくないというニートまっしぐらな方向へ転がり進んでいるのであり、そしてコタツは暖かく外は寒い。時計が進むのを見ながら、ずっと考えていた。行くべきか行かざるべきか、それが問題だ。そう考えて思い悩んでいればなんだか許されるような気がしたので、考えて思い悩んでいたのだが、もう腹は決まっていて、上映時間が過ぎれば自動的に私は晴れてドタキャン人間になるのであり、しかしおれは悩んだのだ、ドタキャンすることに心を痛めたのだ、そういう言い訳は自分の良心に対して立つ。だから、ぼくは考えて思い悩んでいるふりをして、ただ上映時間が過ぎ去り、自動的にドタキャン人間になることを待ちわびていたのです。そうして晴れてドタキャン人間になってしまった暁には、もう何も思い煩うこともなく、晴れて私はドタキャン人間なのだから、どう転んでもドタキャン人間であることには変わりなく、悩んでもしょうがない、今更返信などしてもしょうがない、とまあそういうことになりまして、私は自動的に全ての問題から自由になったのでした。
 しかしそのフリーダムな心境はいつまでも続くものではなく、夕方を過ぎた辺りから今度はふつふつと、私の全人生に対する焦り、みたいなものに苛まれ始め、ESを少し書いてみては投げ、バイトの求人を少し見ては投げ、もっと楽に、一切の努力や苦労などなく生きるためにはどうするべきなのか、そんなありえない空想をしている内に、やはり焦りはじりじりと身に差し迫ってき、こういう時は読書などに逃げ込むのが相場、学術系の本を読んでいれば何か少し自分に対して言い訳が立つような気がするのだが全然頭に入らず、とにかくもうなにかもう真面目なことが全般的に嫌でしょうがなく、いちご100%などを読んで焦りから逃避、お茶を濁していたらばいよいよ外は暗くなり、もう今日も一日が終わりゆき、もう3月になってしまうではないかということにやはり焦りは隠せず、また一念発起してESなどに手をつけるのだけれど、「志望動機」の欄を見ると頭が痛くてたまらず、動機なんざあるわけがなく、強いて言えば私自身の全人生に対する焦りから御社を志望する次第であって、そこで友人からのダメ出し「こんなの茶番だから、一般的に、ウケがいいものを書けばいいんだよ」などが頭をよぎり、そうやって一般的にウケがいい志望動機を仕立て上げて入社した会社において一般的にウケがいい表情を取り繕い、一般的にウケがいい仕事のこなし方をしているうちに、一般的にウケがいい生活が訪れ、一般的にウケがいい嫁をもらい、一般的にウケがいいセックスをし、一般的にウケがいい子をもうけ、一般的にウケがいい教育を施し、一般的にウケがいい父親となり、一般的にウケがいい人生が着々と進行していってしまうことを考えるとおそろしくてたまらず、こんなこととても青臭くて恥ずかしいが、それでもなお「一般的にウケがいい」ということについて考えて、それに従順に生きていくことは恐ろしくてたまらず、いや恐ろしいというかそんなことをし続けられる自信が皆目無く、だから別に「本当のありのままの私」なんてものを信じているわけではちっともないのだが、そうやって戦略的に一般的にウケがいいことをやり続けていく自信がないし、一般的にウケがいいことがなんなのだかも分からず、「一般的にウケが良さそうなことは逆にウケが悪い」ということも往々にしてあることであり、しかし「一般的にウケが良さそう」というステレオタイプステレオタイプなりに、いわば体裁として大変重要な戦略的一手段なのであって、敢えてそこを外すその「敢えて」感がとてつもなくガキ臭かったりもし、だからと言って巡り巡って再び戻ってきたよ、「一般的にウケがよさそう」なことをしてしまうと、別に巡り巡ってそこに辿り着いたわけでもない「一般的にウケが良さそう」と見た目上区別がつかないわけなのだから、私の逡巡は一体何だっったのか、とてつもない徒労、ということになり、捻くれて「一般的にウケが良さそうなことを外す」ということをしてみるのだが、それが実にガキ臭い腐臭を放ち、もう何も考えるのが嫌にもなるというもので、だからそういう戦略的な人生政治ができる気が全くせず、結果一般的にダメな方向へと舵を切って進みつつあることに対してのこの焦りというのが何なのか全く不可解で、きっと全自動的にどこかで調子が狂ったのだった。