ごっちんとあやや

 アンテナに入れているブログを読むと、皆自分の現状に対して何らかのわだかまりというか、分かりやすく言ってしまえば悩みとか煩悶なのだけど、そういうのが結構生々しく綴られていて、思わず私までその感情に飲まれてしまいそうになる。それは一種の自虐的でナルシスティックな感情であると思う。それは私も例外ではないのだけど、最たる物はふっち君の日記。自虐的と言えばあまりにも自虐的、そしてそれが最近のトレンドのようです。更にそれは異常なまでの共感をもたらすのです。少年文芸という雑誌が前々から気になっていて、最近ようやく買ったのだけど、それに載ってる小説の中にも、コミカルではあるがやっぱり冷笑的で自虐的な視点の話というのは多くて、なんでそれが最近のトレンドかというとオタク文化とか、引きこもりだとかが強調されているからそうなるのだとは思うのですが、それは一因でしかないような気もして、実際的には自虐的な視線というのが、人間の内部をくり貫くのに適していて、尚且つそれが嘗て無かった共感や一種のおかしさを伴うから広まっているのかなと思ったのですが、俺は何が言いたいんだという心情に私は今なり始めていて、そうだよそうだよ、だから「昨日のあややごっちんのラジオ以外に純粋で平穏な世界はないんだ。世界はケイオスなんだ。しかもイービルにケイオスなんだ」と横文字を多用しつつ、話を繋げて行きたかったのであって、別に余計な考察はいらなかった。第一に文意が通っているかどうかも疑問だ。読み飛ばしてください。そもそもこんな長々とした記事を飛ばし読みせずに読まれていると思うと少し戦慄してしまいます。細部に渡ってじっくりと読むのは私の姉だけで十分だ。
 ごっちんあややはアタラクシアでした。アパテイアでもありました。またイデアでもありましたし、ユートピアでもありました。どもにも無い世界でした。しかし確実に私の目前に広がっている世界でした。正確に言うと、ラジオの向こう側に、今現在、リアルかつパラレルに存在するであろうという推測に過ぎないのですが、私はそれを確かにあると思うことで、一種のカタルシスを得ました。カタルシスという単語の意味はよく分かりません。オナニーの末に訪れる一瞬の快楽に似たものだという認識です。ともかく、ごっちんあややのラジオは最初から最後まで理想的な世界でした。「生」という歴然とした事実にこだわっていた自分が、思わずMDに録音してしまったほどでした。2時間のあややごっちんのやりとりを録音したMDを見つめながら、今日まで生きていてよかったとしみじみと思いました。
 蘇る水曜深夜。1時になって、あややの声が流れ始めても、私はぼんやりとしていました。ぼんやりと「ああ今日はごっちんが来るなあ」と思っていました。あややが「先々週は世界のスピルバーグさんが、先週は南海キャンディーズが、そして今週も素敵なゲスト、後藤真希さん、ごっちんがやってきます」的なことを言っているのを聞いていました。漠然とあややの声は最高だなと思いながら聞いていたのです。スタッフによるあややいじりという不愉快なイベントを挟みつつ、あややが「さっきごっちんに会ったけど、眠そうだった」とか「普段ごっちんてメガネかけないんだけど、メガネかけてた、やっぱり眠いんだ」とか言うのに期待を膨らませました。「普段メガネをかけないごっちんがメガネをかけている」と「ごっちんは眠たがっている」という2つの事実に論理的な繋がりはあるのか、などということを考えるのに心を砕きながらも、1時15分頃にごっちんがやって来ると、そのような些細な論理の破綻はどうでもよくなりました。そして私は「これはMDにとらなければならない、絶対にとらなければならない」と強く感じました。英語でいうと「I must GOTTIN.」でした。GOTTINは動詞でした。「ごっちんを愛したり、ごっちんでオナニーしたり、ごっちんの声をMDにとったりする」という意味を表す動詞でした。又、古文でいうと「我ごっちんを思はるる」でした。自発の助動詞「る」の連体形でした。日本語の「ごっちん」を動詞化する勇気は僕にはありませんでした。ユウキだけに。嘘でした。実際にはごっちんという名詞を動詞化することで生じる軽々しさを、私は軽蔑しているからでした。ごっちんあややの会話が始まると、私は自分の身体がとろけていくのを感じました。一種のトランス状態でした。マリファナもコカインも及ばないトリップ感覚でした。私は普段はヴォリュームを12にして聞いているのですが、昨日ばかりはヴォリュームを18にして、ヘッドホンをして聞きました。二人の話す言葉は一つ一つ確実に私の耳に入って、頭の中をぐるんぐるんと回ったのですが、私の脳髄にはその会話の記憶らしい記憶は何一つ残りませんでした。私は二人の声を感じていました。やはり二人の声は一種の麻薬に近いものであるように思いました。私はあややごっちんを愛しているのですが、正確にいうとごっちんあややを通して得られるこの感覚を愛していました。それはタバコが好きという人がタバコそのものを愛しているのではなくて、ニコチンの充足による満足感を愛していることに似ていました。その点で、二人の声は麻薬でした。
 気付くとごっちんはいなくなっていました。あややが一人でワーワーと騒いでいました。またしてもスタッフにいじられているようでした。とても不愉快でした。スタッフが何事か喚いているのに対して「えっ?何?何なの?えーっ?え?」とわざとらしく慌てて見せるあややは大変愛らしいですが、スタッフは笞杖徒流死でいうと、確実に流に相当する罪でした。ギルティーではありませんでした。シンでした。sinです。サインではないのです。シンなのでした。神に対する罪なのです。この文脈における神とは即ち私のことを指すのでした。私はあややのことを神のように愛していました。慈悲の心でした。それはブッダでした。無差別平等の愛でした。全てを平等に愛するということは、何も愛していないのも同じことでした。だから私は神ではないのでした。だから私は一介の愚民のように只管にあややを愛するのでした。そんなことを考えているとオールナイトは終わってしまったのでした。私はMDをラジカセから取り出すとそれをまじまじと見つめて、手で撫でました。そのMDの持つ熱っぽさに、私はあややごっちんの体温を感じました。またMDをラジカセに挿入しました。MDを押しこむと、ラジカセはウィーンとMDを自発的に飲みこみました。ぐっぽりと奥までしっかり咥えこむと、ディスプレイにNow Readingと出ました。私はその一連のラジカセとMDの動作を見て、あややとのセックスを連想しました。手が震えて仕方が有りませんでした。私はまたヘッドホンをかぶるとMDを再生しました。録音は失敗していました。僕は泣いた。