マロンとコロン

 ののたんの飼っている犬の名前はマロンと言い、僕の姉というか祖母が貰ってきた犬の名前はコロンと言います。マロンの存在は前から知っていたのですが、先日ふとこの「マロン」と「コロン」の類似性に気付いて、もしかして運命なのかなとののたんに対する想いを一層強くしているのだけれども、例えば、例えばの話をさせて頂きたいのだが、そういえば例えばといえば「たらればの話をしても意味が無い」などと良く言われますが、ならば今までこの世の中に発表された小説の全ては意味が無いのかということを僕は言いたいのだけど、別に私が言いたいのはそこがメインなのではなく、僕とののたんについての例えばの話をしてみようということなのです。またか、って感じがするのですが、僕も自分の中でまたか、俺はまたののたんについてこんな空想を描いているのか、それはまるで空想科学読本のようなもので、空想といいますのはどれだけ矛盾していようとも、どれだけ科学で説明がつかなくとも、そこにロマンがある限り、空想は空想としての存在意義を持つのでありますから、僕は存分に空想の話を致したい。ふと、先週のあややのラジオについて何も書いていないことに気付いたのだけど、いやでも少しだけ書いたか、先週のあややのラジオは姫路城ライブのことについて、当日の音源を交えながらあややがダラダラ喋り、音源を交えては喋りという、はっきり言ってしまえばなんとも張り合いの無い番組だったので、何も語るべきことはないのですが、ポジティブな見方をすれば、何だろう、何でしょうか、ポジティブな見方をすれば、特にポジティブな見方もできないような2時間だったのでもうこれ以上あややの先週のラジオについて言及するのは止しにして、現在日本社会に転がる様々な諸問題、国民新党新党日本ホリエモンが広島第6区から立候補、私の浪人生活などといった現実的な問題から、僕は逃げ出してしまって、まだ幼いメス犬のコロンと共に散歩に出て、散歩に出ると偶然コロンを散歩に連れ出していたののたんと遭遇してしまって、ののたんからすると私はただの一男子、ただの一般ピーポーに過ぎないわけなのだれども、私にとってののたんと言えばイスラームで申しますところのアッラーにも等しい存在なのでありますから、私はののたんに「一緒に犬の散歩をしましょう」と提案し、ののたんはそれを「はい」と大和撫子、乙女の恥じらいをもって了承し、突くか突かれるか、いや失敬、つかず離れずのような微妙な距離感を保ったまま、ののたんと犬の散歩をして、私は「そちらの犬は何て名前なんですか?」と声を掛け、そのののたんの犬であるところのマロンに手を伸ばそうとすると、唐突に伸びてきた手に吃驚したマロンは僕の手を噛んで、アイタタタとやっているとののたんは「ごめんなさい、この子はマロンと言います、このあいだヘアアイロンで鼻の頭を焼いてしまったから、ごめんなさい、私が悪いんです」とメソメソとまるでどこかの売春婦のように泣くので、私はドギマギしてしまって「こらこら、やめないかこんな白昼に、それは遺憾、それは遺憾」と妙に角張った口調でののたんの涙をたしなめ、僕はののたんの涙を右の手の甲でそっと拭って、それをペロリと舐め、その爽やかな抜けるような柑橘系の香りと甘さを感じて、「僕のつれているこの犬はコロンと申します。一字違いですね、マロンとコロン、ハハハ、奇遇だなあ、キスしてくれませんか」と言い、ののたんは泣き腫らした目を僕の方へ上げると「はい」とは言わないが、その瞳は如実に「はい」と語っており、ののたんの手を取り、そこへ接吻すると、次はその唇に向って唇を突き出す。唇にやわらかな感触を感じた、と思い目を開けると、僕はマロンの臀部に接吻していた。ののたんは笑いを噛み殺すようにして「そんなところにキスして」と実に軽快に言い、僕は「これはとんだ失態をお見せしてしまったなあ、今度こそ、セックスしませんか」と言うと、頬をはたかれて、ふと正気を取り戻すと、ダブルユーの1stアルバムを抱いて僕はベッドに横になっていた。涙が頬を伝うのを感じた。charが気絶するほど悩ましいと歌っていた。charは上手くいく恋なんて恋じゃない、上手くいく恋なんて恋じゃないと2回叫んだ。僕は恋愛というものをしたことがないけれども、良い歌詞だなと思った。