つるつるの壷

 それはそうとギガの古本で町田康のエッセイ集が100円であったので買い、坂口安吾の角川文庫の白痴/二流の人が200円であったのでそれも買い、中島らものエッセイ集も200円であったのでそれも買ったのだったが、中島らも町田康も私が好きな文章ではあるのだけれども、タイプが全然逆のような感じもする。中島らもは読んだ端から意味だけが残って文章が消えて行く感じがするのだが、町田康は文章だけが残って意味がからきし何も残らない感じがする。誰だかが純文学というものは文体にこだわるものを総称して呼んでよいのではないか、と言っていたがそれはそうなのかな僕にはわかりませんが、どちらが良いとか悪いとか決められるもんでもない。ちんことまんこどっちが良いのか、みたいな問いでありましょうそれは。僕はまんこの方がいいけれども。ちんこは何か余計なものが付随している感じがしますが、まんこはスマートですよね。僕は前から女性の身体のラインというのに憧れておりまして、女というのは全く鍛えないでもそれなりの美しいラインというものがあると思うのです。よっぽどのデブとかガリとかは別ですが、ぽっちゃりでもスレンダーでもそれなりの美しさがあるのに対して、男はというと鍛えていなければからきし美しさというものは無いのでありまして、しかし必要の美というか哀愁の美というか、具体的にいってしまえばしまりのない腹のたるみとか、ぶよんとはみ出た部分がまた別な美しさを醸し出していることは多々あるとも思いますから、どちらが良いとは言い切れないのですが、でもやっぱり女の身体のラインには憧れる。ピッチリとしたジーンズを履いて股間に余計なふくらみが無いというのは女性の特権であり、セックスアピールでありますから、ダボッとしたジーンズを履いているかわいい女はちゃんと身のほどをわきまえてピッチリとしたタイトなジーンズの尻ポケットに携帯とかサイフをねじ込んでおいて欲しいものです。ブサイクは別にええです。人の顔のことをどうだこうだと言えた義理ではないのでありますが、男には必要の美というものがありますから、女は大変だね。若さが無くなってしまえば女なんて土くれのようなものであります。僕は女性差別主義者ではないつもりなのですが、冷静に考えてみると女性差別主義者なのであります。しかし差別ということばよくない、私の心として女性を差別なんかしてはおりませんで、常に尊敬の対象、オナニーの対象、合一化したい対象でありますから、差別のしようがないですし、このメス豚め!とれいなを罵るときでさえも僕は心の底でれいなに対して全てを捧げているのであって、たとえばこんな雪の日に50cmぐらい積もった一面の銀世界にれいなと二人きり、れいなを抱きしめて好きだよと囁きながらクレバスに向ってれいなを投げ込む、という行為を僕はれいなを尊敬・愛しながらの虐待、そのようなことが可能なわけでありまして、女性というのは差別できない。おまんこに罪はないのであります。性を憎んで性器を憎まずであります。だから、女性と男性というのは差別という関係性ではなくて、区別という関係性から是非見るべきでありまして、今日におきましてはフェミニストの不当な進出により我々男性の権利は日々蝕まれておるのでありまして、我ら男がミニスカの女子校生に目を奪われたり、魔が指して手鏡でそのパンティを覗こうとしてしまうとセクハラ・性犯罪として厳しく取り締まられてしまうのでございます。これは実に不当なことです。性を憎んで性器を憎まずであります。それと同様にして、手鏡を憎んでその人を憎まずであります。女子高生のパンティがあんなにエロいのがいかんのだ。