鍋と薬缶

 年が明けてから急速に一日というものの儚さ、あっけなさ、短さということを痛感し、「時間が無い」を口癖にして日々を生きるのに疲れ、ぼんやりとした不安を抱えながら一日12時間睡眠の弊害を感じ始めつつ、「このままのペースで行くと、一生の半分はベッドの中で過ごすことになるね」という言葉をあはははと笑ってやり過ごしたはいいが実際それは恐るべきことであり、現代では平均寿命がどんどん延び、男女ともに70歳前後であると記憶しているが、実際のところそれは戦前世代の話であり、戦争を生き抜いた世代を参考に我々の世代の寿命を考えても正確な推測は不可能であると我等が担任はおっしゃっており、僕はその意見に全面的に賛成という立場はとらないけれども、生物教員の言うことを捨て置くことはできぬという倫理的な配慮からその意見の一部を採用し、我々の世代の平均寿命をおおよそ60歳ぐらいであると仮定すると、人生の半分をベッドの中で過ごしたとしたならば実質30年間しか生きたということにならぬのであり、残りの30年間はただただ夢の中で逍遥として胡蝶の夢、なんてことになりかねず、そもそも人生の半分を寝て過ごしたとしならば確かにそれは胡蝶の夢である。それは間違い無い。そのような恐怖に圧迫されて私は精神的疾患を抱え、実際には抱えていなくとも俺は精神的に疾患しておるのだ!と昂ぶってくる気持ちを否定することができず、ついに精神病院へと足を踏み入れるのだが、その待合室には女の子が3人居てそれぞれが実に楽しそうに談笑しており、僕は待合室の中でその3人組のやけに楽しそうなカンバセーションを黙殺し、ひたすら順番を待つという行為に至ることができず、近くを歩いていた看護婦さんに「ありゃ何です、騒がしすぎやしませんか」とさりげなくその少女達に注意をするように促すと、看護婦さんはその細すぎる目をさらに細くして「あの子たちも患者さんなんですよ。しかもあなたなんかよりもよっぽど重い疾患を抱えていらっしゃいます。よかったらもっと近づいて御覧なさい」と言うから、僕はそれならば失敬してと申し上げて後にその少女に近づき、よくよくそのお顔を拝見すると左から亀井絵里道重さゆみ田中れいな、と僕は何故だかその少女の顔と名前がすばやく一致し、しかもその主な呼称がえりりんさゆみん・れいなであるということにまで素早く思い至る。そしてえりりんは早口に自分の頭のてっぺんからつま先までを口述することによって亀井絵里という人間の存在を外側から完全にデスクライブすることに努め、さゆみんは己のかわいさ・美しさ・処女性についてありとあらゆる形容詞と形容動詞、更には助詞や助動詞の本来の意味からビヨンドした意味を無理矢理に派生させてそれをまたエクスプレインしようと努めており、一方れいなはその二人の会話に入るべく「れいなはー、れいなはー」と口にしているのだが一向に会話の糸口が掴めないためにただ自分の名前を連呼するという実に不毛な行為をしているのであって、時折その3人の少女はタイミングを合わせてドッという感じで一斉に笑うのであった。僕はそれをれいなのおまんこからおおよそ1mの範囲内においてつぶさに観察し、持ってきたカバンのなかから真っ白なカンバスと油絵の具道具一式を取り出し、机の上においてあった鍋と薬缶のディテールをそのままにカンバスの上に再現しようとして、鍋の取っ手の部分がややこしかったで諦めて筆を折ったのだが、3本束ねて折ると折れなくてサンフレッチェ