学割を取るために代ゼミへ。誰かに会うかなと思ったのだが誰とも会わず、玄関横の喫煙スペースで4人ぐらいでたむろしている茶髪デブ(彼からはドランクドラゴン塚地を想起せざるを得ない)を中心としたグループになんとは無しに上からの視線で見送られて、なんだお前ら代ゼミの前で喫煙しつつ談笑している俺ってかっこいいみたいな状況に酔いやがって、死ね、一生広島でくすぶって死ねと思いつつ駅前の本屋へ行き「禅と日本文化」という新書を買い求めようとしていると友達に会ったので周りの迷惑かなあと思いつつもしばし談笑。早稲田法に受かって今スーツの勉強中という彼は6畳1K7万という下宿について贅沢な悩みを抱えており、ああその気持ちはよく分かると言いながら僕は国立後期のひしひしと迫ってくるめんどくささ、「おっ、後期も先生が見てやるから来いよ、おっ」の圧倒的な圧迫感に悩まされていたので、心ここにあらずな気持ちで彼と分かれるとそのまま禅と日本文化という新書を手に取ると、ふと思い立ってナウシカの原作と寺山修司の詩集を買って、家に帰る道中で二人乗りの高校生カップルを見かけると若いなあなんて思って、そこには嫉妬の心は多々あるのだが一種の達観した気持ち、俺は大学生だから、お前らのような高校生的な軽薄なノリじゃないからというような気持ちで優越感に浸ろうとしてみたのだが、やっぱり現役女子高生とセックスできるコイツはどう考えても羨ましいのでジェラシーに燃え、家に帰ってひたすらにナウシカを1巻から熟読。読み始めるとなんだか昔読んだ時ほどの面白さがないなあと思ったものの、1巻の半ばあたりからはもう完全にナウシカの世界に没頭し、姫さま!やめてくだされ!そんなの無謀ですじゃ!のような心境になっていたのだが、読み進めて行くに従ってナウシカ本人よりも僧正様やユパ様やチククやクシャナなどのナウシカ以外のキャラクターに惹かれて行く。それにしても昔読んだ時は国と国とが非常に複雑に絡み合っていると思ったのだが、今読むと基本的にはトルメキアとドルクの争いであることが分かり、前は全然話の筋を追えておらず、単純に絵とキャラクターの雰囲気のみで読んでいたのだなあということが痛感させられ、そのような状況を正確に把握しないでクイの死ぬシーンは泣けるとかユパ様が死ぬシーンはかっこいいとか言っていた自分が非常に浅はかであったなあということを感じたのだが、そんなことはどうでもよく7巻全てを読み終えるとやっぱり面白いなあナウシカはという実にシンプルな感想に落ちつくのであったのです。それから寺山修司の詩集を少し読み、海というものについて少し考え、そういえば坂口安吾も海について何か言っていたなあと思うのだが、生憎にして角川文庫の肝臓先生が手元にないので坂口安吾の言う「海」について定かではないのでなんとなくぼんやり、私は海を抱きしめていたい。何を言うか。私はれいなを抱きしめていたい。言葉というのは記号であって、それ以上でもそれ以下でもない。意味から離れたところにある言葉は純粋に記号としてのみ存在する。だから「あのさー」という言葉をただの記号として認知し、それに「愛してる」という意味を与え、「なんだよ」という言葉に「私も愛してる」という意味を当てるとするならば、「あのさー」「なんだよ」という一見殺風景なやりとりは「愛してる」「私も愛してる」というぬらぬらぬとしたやりとりに換言されるのであり、それは実にいいことだと思います。