ノート

 家庭教師なるバイトを始めて二年近く経ち、「AVの家庭教師モノはウソばっかりだ!」ということを改めて痛感しておるわけですけれども、まず年頃の娘さんの部屋で二人っきりで教えるということは当人も拒めば、親御さんだって当然拒むわけで、リビングのテーブルで勉強します。親御さんの監視付きで。男の子に関してはそういうことはないのですけれども、男子高校生の部屋のゴミ箱から香るむくつけきザーメン臭の中、男二人が雁首寄せ合ってセンター試験の問題を睨みつけている様など、傍から見ればほとんど淫靡な世界でありまして、むしろ家庭教師モノのAVは「男子大学生」と「女子高生」などを扱うのではなくて、「童貞男子大学生」と「童貞男子高校生」の濃密な同性愛の世界などを描き出すのに最適な舞台設定のように思われた。
 また「自分の自室には勉強机がない、いやそもそも机というものがない」という学校教育体制に対してパンキッシュな姿勢を包み隠さない家庭もあり、実際その部屋を拝見しました際には、その部屋のほとんど世紀末的な有様に自分がいかにマジメな家庭で育ち、そしていかに勤勉であったか、ということを痛感いたしました。
 それにつけても気にかかるのはノートの使い方でありまして、おそらくほとんどの高校生中学生は「ノートは板書を写すもの!」という不思議な伝統を何の疑いもなく受け入れ、ノートに先生の板書を写しておると思うのですけれど、その板書を何のために写しとったのかと言えば、ただひたすら写すために写しているのであって、実際ぼくもA型の几帳面さを発揮して「板書をノートにキレイに写しとってやる!」という気概でノートを取っていたわけですけれども、これが試験直前までほとんど見返されない、場合によっては試験直前にすら見返されない、という恐ろしい現象があるのであります。
 ノートは後で見返すために取るのであって、何で見返すかといえば、それはそこに記述してあること記憶に定着させんがためであるのであり、つまり逆から遡れば自分の記憶に定着しているものをわざわざノートに取る必要はないのである!ということです。しかしそれでも記憶に定着した、と思っていたら、いつの間にか忘れてしまっていた、覚えていると思っていたけれども実は覚えていなかった、ということがありますから、学校の先生の板書というのはとりあえず全てノートに写せば良いと思います。
 つまりぼくが言いたかったのは、女子高生の部屋で勉強を教えてみたい、ということです。