作品

 先日ラジオを聞いていたら、だれだれなんとかさんというもう結構なお年を召したであろう女性が、新しくCDアルバムを発売するとかで、パーソナリティが「この作品に込めた思いは?」などと当人に訊いていた。女性は「もう歌に込めた思いなどというものはない」と言った。それはそれは勇ましく爽快な明言であったが、続けて「ただ歌というものは素晴らしいぞ、音楽というのは素晴らしいぞ、ということ、音楽の力というものを信じているんです」と言うので、驚愕した。なんともまあ壮大な思いを込めているではないか、と思った。
 女性は訊かれもせぬのに「昔よりも創作意欲がすごい」「インスピレーションがすごい」「歌詞にはいつも悩んだもんだったけども、今回はすらすらとでてきた」と矢継ぎ早に語り、更には「この作品は、ほんとうにもう、自然にできた、ありのままの私が詰まっている」とまで言った。おそろしいことだと思った。「作品」とかいうものに、「私」を込めてしまって、本当に大丈夫なのだろうかと思った。それでは今マイクを前にして語っているあなたの身体というのは一体どうなってしまうのだろう。あなたの身体はもしかして、作品に魂を奪われてしまった抜け殻なのではないか。だからそのような血迷ったことを言うのではないか。
 そもそも「作品」という言葉がおそろしい。字面からすれば「作ったもの」という程度の意味でしかなさそうなのに、何か仰々しく崇高なものがまとわりついている。アーチストの気取りというものがおそろしい。作ったものに安易に魂を込めてしまうのが恐ろしい。魂を込めた「作品」が誰にも受け入れられなかったら、どうしたらいいのだろう。また受け入れられたくもない人に受け入れられてしまったら、どうしたらいいのだろう。
 女性とパーソナリティは通り一遍の会話を終え、「それでは聞いてください」となって、曲が流れた。「頑張れば夢は叶うさ」という内容の歌詞であった。この作品に込めらてしまった魂は、どこにいけばいいのだろう。