吉増剛造「予告する光」

 今日は吉増剛造という人が大学に来、自作映画を流しつつ喋る、ということがありき。見けり。先生が司会をやった。部屋はクーラーがギンギンに効いており、スクリーンに映像を流すたび、スイッチが切られるのだけども、しばらくすると途端に暑くなり、誰かが耐えかねてクーラーのスイッチを入れにいく、ということが何度か繰り返された。
 そう人は多くはなかったが、教室の二人掛けの机のほとんどが埋まる程度には人が居た。40人ほどだと思う。ぼくは吉増剛造という人を全然知らず、先週先生がこれこれこういうことをするので良かったらどうぞ、という話を聞き、それで初めて知ったような塩梅で、全然宣伝らしい宣伝もしていないから、お友達などに声をかけて一緒に来たらいいさあ、というよな話もあったので、友人の一人に声を掛けると、彼女も吉増剛造という人は知らんとぞ言ふ。現代詩人では第一級の人らしいよ、という話をする。別れてのち、「顔に刺青できるか、きみは!」の人だねえというメールが来る。その詩も知らない。調べたらネットというのは便利なもので、いやGoogleがすばらしいのかも知らんが、すぐに出てきて、読む。よく分からないが、ああこういう感じの詩を書く人なのかあと思う。その友人は「寝過ぎで行けない」というよく分からないメールを寄越し、来ず。
 ひたすらぞっとする2時間で、それは肯定的とか否定的とかもうよく分からない感じでぞっとした。映像を流しながら吉増さんは喋るわけだけれども、それは先生も言った通り「映像の中の音なのか、外の音なのか分からなくなる瞬間がある」という塩梅で、一体どういう感覚でもってそこにおればいいのだかがよく分からなくなる。それは心地良いといえば心地良いような気もするし、恐ろしく不快であるといえば恐ろしく不快であるような気もした。吉増さんはマイク片手に、映像について、これは車の中で撮ったもので等々、その撮影段階における状況の説明ということをしたり、また、これはアメフラシなんだなあとか、自身が今この映像を眺めてみることで感じられた感想みたいなものを述べたり、またその映像についての自己言及というのか、自身の精神分析めいたことも口にする。全部同じ声のトーンで。当然映像の中においても吉増さんはカメラ片手にぼそぼそと喋っているのであり、やはりその声も、これはテレビの画面を撮っていますとか、そういう類の状況説明から、この音がいいんだとか、感想のようなものを喋っている。それが、映像の外で今マイクを持って喋っている吉増さんの声に遮られたりもし、まったくもって混乱する。どういう感覚でもってここに座っていればいいのか、と戸惑い、不快ですらあった。教室の空調が切られていて暑い、という不快さもあった。ま、途中からなんだかどうでもよくなって、ぼんやりと画面を見つつ、音を聞いた。
 先生との質疑応答というか、もう対談みたいなことになったけれども、先生が「吉増さんの喋り方に影響される」と言うとおり、いつもにも増して抑えられたトーンで、ひどくゆっくり喋った。最初の方の質問は忘れてしまった。なぜ映像を流している傍らで、弁士のように喋るということをするのか、という質問に、「字幕になりたい」みたいなことを答えたのが妙に印象に残っていて、それはここ最近の個人的なタイミングもあって、たいそう納得した。吉増さんは先生の質問に答えつつ、合間合間に「〜〜だなあ」とか「〜〜かなあ」というひとり言のようなことを言う。それがマイクを通して語られる時点で、ひとり言にはもはやならないのだけれども、「〜〜だなあという気がする」とか「〜〜かなあと思う」とか、そういう語られ方をせず、もう半ば投げっぱなしというか、まあやっぱりひとり言が思わずもれてしまうような感じで「〜〜だなあ」ということを言う。これにまたぞっとする。一体全体このマイクを通した声を聞いている私というのは、どこの位置に立ってその声を聞けばいいのか、という気になる。マイクを通して語られている時点で、それは「ひとり言のように語られるもの」であって、それは別にひとり言ではないのだから、何もこちらが縮こまる必要はないのだけれども、やっぱりそれは何回聞いてもひとり言なので、他人のひとり言をなんでおれが聞かせられなきゃいかんのか、しかもマイクを通して、という気分になる。吉増さんの喋り全体が、対話とか発言とかいうよりもなぜだか妙にひとり言じみていて、それはなんでお前のひとり言を聞かなきゃならんのか、という憎らしい感覚であると共に、あなたのひとり言を私が聞いてしまっていいのだろうか、という後ろめたい感覚でもある。
 映像の中の声も、映像に付き従うようにしてマイク片手に喋る声も、また映像がそこに流れておらず、先生やまた来場者と対話をする時の声も、全部がどことなくひとり言っぽく、それがたまらなくぞっとさせる。無論割とハキハキと明らかに説明口調である時もあって、その時の声の時は「吉増剛造の話を聞いている」という位置でぼくは落ち着けるのだけれど、それが滑らかにひとり言じみた語りへと移っていくので、「吉増剛造がマイク片手にひとり言をぶつぶつ言っているのを眺めている」よな感じになって、一体ここはどこであろうか、おれはなんだってここにいるのだろうか、空調はギンギンに効いて寒いか、全く効かないで暑いか、その両極端であるし、もう不快でありつつ、妙に包まれている感じがしたり、とにかく始終ぞっとした気持ちのまま、終わる。
 外へ出て、タバコを吸い吸い雑談していると、やっぱり先程の空間というのがあまりに異常なことのように思え、今週のゼミでの発表に、そこで提出すべきレジュメのあり方というものに対して、なんだかもうひたすらぞっとする気持ちを抱えつつ、なんとなく家へ帰れなくて、喫茶店に行き、隣の席で繰り広げられている映画談義、日常的な男女のやりとり、そういうの聞いていると心が洗われるような気がして、アイスコーヒー2杯500円、飲み終えて、家に帰ると即座に寝たり。起きて、発表のレジュメを書かんと思へども、やはり全然頭がそっちへ向かず、今日の吉増さんと先生の対話、その異常さばかりが頭を掠めてしょうがないので、とりあえずこの文章を書いて、蹴りをつけたつもりになる。