「お前社会舐めてんのか」

 私は笑って頭をかき「いや、そんなことはないんですけどね」と答えるのだけれども、相手方はえらくご立腹であり、舐めてる、バカにしてる、と言ってやまない。のんべんだらりと長々学生をやり、ろくすっぽ就活に本腰を入れず、お前の将来が心配だ、あそこはどうだここはどうだと色々アドバイスをくれるのに、「その会社はよく知らない」「好きじゃない」などと適当な答えを言っていたらそう怒られたのだった。感情的になるほどに我が身を心配してくれている、と考えれば実に感謝にたえぬような気もしたのだが、「社会舐めてるのか」というその台詞は間違っている、舐めていない、むしろ逆である。「社会は厳しい」「食っていくため」「お前は選べる立場にない」「不況」などと盛んに喧伝される社会なるものを舐めれようはずもなく、「そうか、社会は厳しいのか、怖い」「食っていくためにはつらい思いをしなければならないのか、怖い」「おれは選べる立場にないのか、怖い」「不況か、怖い」などと一々私はそれらの言葉に深く納得しているのであり、「そんなに恐ろしく厳しい社会なるものに、根気のない、働く意欲に乏しい、約束をすぐに違える私のような人間が参加させていただけるものなのだろうか、無理だ」という思いから、つまり社会を畏怖しとても尊いものだと考えるその思いから、私は積極的な就職活動というものを拒んでいるのであり、だから「社会舐めてんのか」という言い草は完全に間違っている。私は幸いにして未だニートではないが、多くの若年ニートが抱く悩みというのは、きっと私と同じように、「恐るべく尊き社会に自分などという若輩無能な人間が参加するだなんてとんでもない」というものなのではないか、と睨んでいるのである。「働くなんてバカバカしいぜ。とりあえず生活できるんだから働かなくて何がいけねーんだ」と開き直っているニートはきっと少ない。仮に口から手から漏れたとしてもそれは大体強がりに過ぎない。心の底からそれを主張しているのはphaなどのプロニートか、全てに満足した順風満帆な余裕のある社会人なのではなかろうか。それでも心中「こんな生活が長く続くはずがない」という不安を抱いていることは疑いえない。phaのブログで「ホームレスの人たちを見ると心の中で"先輩"と呼ぶ」などという一節があったような気がする。しかしそのような不安はきっと社会人ならみな抱えているだろう。この生活が続くかどうか不安だという先行きの不透明さに対する悩みは、この不況下の現状とても正常なことであるように思われる。
 プロニートにもなりきれず、社会人にもなりきれない、ただひたすら社会を畏怖し、先行きの不透明さに目を背け、気づけば滔々と流れる変わりなき日々に甘んじている我々のような若年ニート及びその予備軍の問題は、何ら信ずべき行動の指針を持たない、というかそのような信念を持つことがとてつもなくあほくさいバカらしいなどと思っている節があるということである。社会への嫌悪に近い畏怖と歳とを無駄に重ね、漠然とした全人生に対する不安を抱えながら、それをごまかすように目の前にある何かに入れ込むだけで、なけなしに時間が過ぎていく。当然よろしくない。どうにかならないものだろうか。何もしないで、どうにかならないものだろうか。誰かが私をひょいと普通に生きるレールの上に乗せてくれないだろうか。そのレールの上で、とりたてて信念も持たず、目の前の仕事を「仕事」ではなく「作業」として、何の思想も信念も感傷もなく日々遂行していくことで生活が成り立ったりしないものだろうか。しかも人に見下されたりしない形で。いや正確に言えば、私が「人に見下されている」と感じないような形で。このような考えを包み隠さず話すとなればそれは当然「青臭いガキの戯言」とみなされることは分かりきっており、そうやってバカにされることはプライドが許さない。無駄なプライドの高さ。その姿勢は正しく「社会を舐めている」ということに相成るだろう。「一瞬たりとも人に見下されたくないって考えが舐めてんだよ」悩みは誰にも語られず、それゆえ解消したりすることもなく、時折投げつけられる「社会舐めてるんじゃねーよ」「生きるのは大変なんだ」などの正論に腐り、もはや社会への畏怖は嫌悪に変わり、日々自己嫌悪と現実逃避と責任回避の言い訳を頭の中で押し並べている内にふと冷静になる瞬間があって、やはりおれは社会を舐めているのだろうな、と納得するのだが、その納得が現在の好ましからざる事態を何ら好転させることもない。社会を舐めているとか舐めていないとかいうことはあまり問題ではない。社会において自分は肯定的な役割を担っているか否かという自覚が問題なのであって、そしてその社会における肯定的な役割を手に入れるためには、とてつもなく面倒な作業が必要であることが問題なのである。と、また社会の仕組みのせいにした。