承認と自己実現

 「承認欲求」という言葉を度々目にするようになったのはここ数年の気がする。誰が言い出したのかよく知らない。心理学から来た用語かなとも思うし、社会学から来た用語なのかなとも思う。とりあえず「人間には他人から肯定的に認められたいという欲求がある」という意味だと理解している。対して「自己実現欲求」というのはあまり聞かなくなった。自己実現というと受験倫理でやったのを思い出す。マズローの欲求5段階説だった。「マズロー」と打つと予測変換で「マズローの欲求5段階説」と出てくるのだからGoogle日本語入力は便利なものだと思う。すごい。何段階あったかなんて忘れていた。内容はうろ覚えだが、生きていくのに必要不可欠な食欲とか睡眠欲とかの低次の欲求が満たされると、「かくありたし」という高次の欲求が芽生えるとかいう話だったような気がする。昔はなるほどと思って感動すらした覚えがあるが、欲求がそう安々と低次なものと高次なものに分けられるはずもないだろうと今となっては思うし、マズローというきっと優秀な人がそれに思い至らないはずもないから、ちゃんと原典にあたれば詳細な分析があるのだろうとも思う。自己実現という言葉の元々の用法はさておき、今この言葉が出てくると胡散臭さやあやしさを感じるのは、自己啓発セミナーなどが連想されるからでもあるし、「自己実現とか口にする奴は青臭い」というイメージがどこかしらあるからだろう。多分元々の意味合いとはどっかしらズレた意味になっているように思う。「夢を叶える」という意味合いのことをちょっと小賢しく言い換えた、という感じがする。
 なんだったか、この承認欲求なるものと自己実現欲求なるものの折り合いはどうついているのだろうか、とふと考えた。承認欲求も自己実現欲求もなんとなく「まあそういう欲求はあるよなあ」と納得できるから、それらの欲求は自分の中でどう折り合いがついているのだろうか、とふと思ったのだった。私の「かくありたし」という姿はどのようなものだろうか、と考えると、人から尊敬されるような人間、少なくとも人から見下されない人間、もっと言えばとにかく褒められたい、ということに尽きるように思われた。要するに何かしら天才的な何者かになりたいのである。これはつまり承認欲求の極地のようなものではないか、という風に思った。「他人から積極的に承認されるような人間になること」が私の自己実現であるらしかった。これは矛盾しているように感じられた。自己実現とは名ばかりの、単なる他者依存のように思われた。そしてなおかつ私は「積極的に他者からの承認を求めるような人間」や「かくありたしという姿を追い求める人間」をあほらしい、青臭いなどと思って嫌悪しているのである。これは一体どうしたことだろうと思った。私の欲求ははち切れんばかりに他者からの承認に飢え、それに依存しているにも関わらず、私の道徳はそれを拒絶しているのだった。全く意味が分からないと思った。それにそもそも「承認」というものがあやしかった。他者が私を承認しているかどうかは、実際良くわからないのである。私が「承認されている」と感じたところで、それがお世辞であったり皮肉であったりするかもしれないのだ。オナニーではないか。自分の都合のいいように捻出した承認を、自己実現の根底に置き、あてにしてしまっていいのだろうか。それがお世辞や皮肉であったともし気付いてしまった時、私は一体どうなってしまうのか。そら恐ろしいではないか。自分の想像上の産物である「他者」に自身の一切の自己実現の根拠を求めることは危ういと感じられるし、虚しいとも感じられた。こんなことではいけない、と思った。自己の内部で苦し紛れに捻出した他者やそれが私に与える承認などを介することなく、私は私自身の道徳や信仰において、何かしら絶対的な自己実現像を持たなければとても生きていくモチベーションを保ち続けられないと思った。ただ、そうするためにはどうしたらいいのかよく分からなかった。私は私のために、とにかく絶対的な信仰の対象が必要なのだと感じた。そうなると宗教に救いを求める気分というのもなんとなく理解できた。しかし宗教で言う神を信じる気には全然ならなかった。そこまでの切実さ(心理的な態度的なそれのことではなく、私の私という自己に対する信仰の敗北)はない。とにかく漠然と、このままではどうしようもない、という気分になっただけだった。