どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない

 というとてもキザな文句がありまして、寺山修司ですが、全般的にキザだしベタだと思うのだけど悔しいことに好きなのです。この一節は変な日本語だと思う。大意として同じ内容のことを当たり前に書くのなら「どんな鳥も想像力より高く飛べない」「どんな鳥も想像力より高く飛ぶことはできない」「想像力より高く飛べる鳥はいない」の三つのうちのどれかだろうと思う。「どんな鳥も」がこの文の主語になるのならば「飛べない」が述語として帰結して然るべきだろう(一番先に上げた文)し、「鳥は」が主語になるのならば「いない」が述語として帰結して然るべきだろう(三番目に上げた文)。二番目に上げた文は「飛べない」を「飛ぶことはできない」に間延びさせているのだけど、この場合の主語というのは構造的には「飛ぶこと」になるのだろうか。三つの文は大意としては同じ内容ではあるものの、主語と動詞のみを単語レベルで取り出して見ると一番目は「鳥」と「飛ぶ」、二番目は「鳥」と「いる」、三番目は「飛ぶこと」と「できない」となるわけで、三つとも全然異なる骨子から成っている文だということが分かる。だからなんなのだ。
 「どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない」文法的な座りの悪さ、主語と述語が然るべく帰結されていないということ、この一節の文構造自体が「どんな鳥も」と「鳥は」のどちらを主要な主語と見るべきか不明であり、それが故に「飛べる」と「いない」のどちらを主要な述語として見るべきか不明であるということ、片方の構造を帰結成就させればもう片方は全くの不要なものとなってしまうこと、「私は嘘を吐く」に代表されるような論理における循環にも似た、文法構造上の(記述の運動上の)形式的な循環が、それこそ上方へ向けて螺旋を描いていくように思え、その運動と鳥が飛ぶイメージが相まって生じる軽やかさが、でも、だからなんなのだ。