フェティシズム

 それが宗教/経済/性の三つの文脈で使われる言葉であるということを知り驚いた。しかも宗教の文脈でそもそも考案された概念で、続いてマルクスが経済の文脈にそれを応用し、それからビネとかいう人、そしてフロイト精神分析という流れであるらしい。フロイト説は以下。

 まず、男性は幼児のころ母の性器を見るが、彼女にペニス(ファルス)がないという事実に衝撃を受け、この事実(母にペニスがない)を否認する。だからといって、ペニス(の代理)は母の性器に登場するのではない。そこからずれたかたちで――つまり、身体の部位や衣服などに――母のペニスとしてフェティッシュが生じるのである。これによって、子供は去勢の恐怖に打ち勝つ。なぜなら母にはペニス(フェティッシュ)があるからだ。フェティッシュは「去勢の脅かしの勝利であり、この脅かしから守ってくれる」存在なのである。ペニスの欠如の否認は、一方で女性器の嫌悪に、他方でフェティッシュへの性的欲望を生み出す。こうした否認は、フロイトによると完全ではなく、事実の否認と承認の両方、つまり両極的態度が認められるのが一般的だという。
フェティシズム論の系譜と展望』田中雅一(京都大学学術出版会)

 あまり納得できない話で、深層心理的に、無意識的にそうなのだと言われると「そうか」と思う他ないが、個人的な実感として「母にペニスがない」という事実なんぞより、「女性から私に向けられる愛情なんてものがない」という事実に端を発しているのではないか、という気がする。それは別に自虐とかそういう話ではなく、感情全般が「本当の気持ち」とかいってまるで実体であるかのように扱われるが、感情に実体なんぞ無いように思われるからである。例えば、今までなんとも思ってなかった女がちょっと気のある素振りを見せたりすると、「あれ、この女おれに惚れてるんちゃうの。っていうかおれがこの女に惚れてしまうかもしれん」みたいに思うわけであって、感情に実体は無い。私と誰か(もしくは何か)との関係において、瞬間的に発火するのが感情であって、それは実体ではない。「本当の気持ち」などない。それに加えて、相手の内部で発火しているのだろう感情と、相手の身振りや仕草を通して"予測され"私に感じられる感情との間には、根本的な断絶がある。他人の気持ちなど分からない。いくら私の目に好意的な行動と映ろうとも、それは嫌味なのかも知れないし、何も考えていないかも知れないし、好意と悪意が混濁した状態だってあるだろう。
 だからそういった意味で、実体として確固たる「愛情」が無いということ、ふとした瞬間に相手から私に対する「愛情」なり「好意」なりと受け取られるようなものがあったとしても、それが所詮虚しいものであるということ、そういう「愛情の実体のなさ」という事実を否認する。それがフェティッシュであるように思われる。女の体臭が、肌に触れる体温が、濡れた陰部が、首に回される手が、近づいてくる顔が、それぞれどのような感情(ないしは空虚)の下に動いていようとも、その肉という物質自体に何ら変化はないわけであり、風俗嬢の身体も、恋人の身体も、大した違いはない。その所作が、いかにも「愛情」や「好意」を、表面的に表象していればそれで満足できる。というか、それ以外に満足のしようがない。
 などと諦めきったことを言いながら、その実私は「本当の気持ちがない」ということに絶望に近い怒りを感じる。なぜ「本当の気持ち」という実体がないのか。なぜ「本当の愛情」に基づいた肉体が無いのか。なぜ私の"予測した"感情と、誰かの内で発火する感情とがイコールにならないのか。「愛情の実体のなさ」を否認するということは、「愛情には実体がある」という願望(錯誤)であって、フェティッシュはそれが錯誤でしかないということに対する怒りによって支えられている。体臭と体温と縋り付いてくる手に途方も無い欲情を覚えるが、フロイトが言うように確かに事実の否認は完璧ではない。事実は事実としてしんどく胃に刺さって痛い。肉であれ挙動であれ衣服であれ、何に執着してもずっと痛い。