どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない

 というとてもキザな文句がありまして、寺山修司ですが、全般的にキザだしベタだと思うのだけど悔しいことに好きなのです。この一節は変な日本語だと思う。大意として同じ内容のことを当たり前に書くのなら「どんな鳥も想像力より高く飛べない」「どんな鳥も想像力より高く飛ぶことはできない」「想像力より高く飛べる鳥はいない」の三つのうちのどれかだろうと思う。「どんな鳥も」がこの文の主語になるのならば「飛べない」が述語として帰結して然るべきだろう(一番先に上げた文)し、「鳥は」が主語になるのならば「いない」が述語として帰結して然るべきだろう(三番目に上げた文)。二番目に上げた文は「飛べない」を「飛ぶことはできない」に間延びさせているのだけど、この場合の主語というのは構造的には「飛ぶこと」になるのだろうか。三つの文は大意としては同じ内容ではあるものの、主語と動詞のみを単語レベルで取り出して見ると一番目は「鳥」と「飛ぶ」、二番目は「鳥」と「いる」、三番目は「飛ぶこと」と「できない」となるわけで、三つとも全然異なる骨子から成っている文だということが分かる。だからなんなのだ。
 「どんな鳥も想像力より高く飛べる鳥はいない」文法的な座りの悪さ、主語と述語が然るべく帰結されていないということ、この一節の文構造自体が「どんな鳥も」と「鳥は」のどちらを主要な主語と見るべきか不明であり、それが故に「飛べる」と「いない」のどちらを主要な述語として見るべきか不明であるということ、片方の構造を帰結成就させればもう片方は全くの不要なものとなってしまうこと、「私は嘘を吐く」に代表されるような論理における循環にも似た、文法構造上の(記述の運動上の)形式的な循環が、それこそ上方へ向けて螺旋を描いていくように思え、その運動と鳥が飛ぶイメージが相まって生じる軽やかさが、でも、だからなんなのだ。

追記

 マズローの欲求5段階説を調べたらとんでもない勘違いをしていることに気付いた。一人の人間の抱えるその欲求を5つに大別できます、というものだと単純に思っていたが、それならば「段階」でありようはずもなく「区分」であるべきで、よくよく考えれば分かる話だった。マズローによれば人間は欲求の階段を昇っていくらしかった。低次の欲求が満たされないと、高次の欲求は生じない、という話なのだった。だからつまり私はあほであった。承認欲求と自己実現欲求の折り合いなど考える必要がなかったのである。承認欲求の段階を超えたところで初めて自己実現欲求が生じるらしいのである。だからマズローのモデルによれば私が承認欲求の段階に留まっていて、精神的に未熟であるということが分かるのですね。ははは。なるほど、私は未熟でありましたか。ではこの飢えた承認欲求が満たされれば私はようやく自己実現欲求の段階に突入し、それが芽生えるということになるのですね。なるほどなるほど。では承認欲求を満たしましょう、とて承認欲求が満たされれば何の苦労もないわけである。そもそもその欲求と充足を私の道徳が嫌悪しているのです。これをまずは矯正していただきたい。

承認と自己実現

 「承認欲求」という言葉を度々目にするようになったのはここ数年の気がする。誰が言い出したのかよく知らない。心理学から来た用語かなとも思うし、社会学から来た用語なのかなとも思う。とりあえず「人間には他人から肯定的に認められたいという欲求がある」という意味だと理解している。対して「自己実現欲求」というのはあまり聞かなくなった。自己実現というと受験倫理でやったのを思い出す。マズローの欲求5段階説だった。「マズロー」と打つと予測変換で「マズローの欲求5段階説」と出てくるのだからGoogle日本語入力は便利なものだと思う。すごい。何段階あったかなんて忘れていた。内容はうろ覚えだが、生きていくのに必要不可欠な食欲とか睡眠欲とかの低次の欲求が満たされると、「かくありたし」という高次の欲求が芽生えるとかいう話だったような気がする。昔はなるほどと思って感動すらした覚えがあるが、欲求がそう安々と低次なものと高次なものに分けられるはずもないだろうと今となっては思うし、マズローというきっと優秀な人がそれに思い至らないはずもないから、ちゃんと原典にあたれば詳細な分析があるのだろうとも思う。自己実現という言葉の元々の用法はさておき、今この言葉が出てくると胡散臭さやあやしさを感じるのは、自己啓発セミナーなどが連想されるからでもあるし、「自己実現とか口にする奴は青臭い」というイメージがどこかしらあるからだろう。多分元々の意味合いとはどっかしらズレた意味になっているように思う。「夢を叶える」という意味合いのことをちょっと小賢しく言い換えた、という感じがする。
 なんだったか、この承認欲求なるものと自己実現欲求なるものの折り合いはどうついているのだろうか、とふと考えた。承認欲求も自己実現欲求もなんとなく「まあそういう欲求はあるよなあ」と納得できるから、それらの欲求は自分の中でどう折り合いがついているのだろうか、とふと思ったのだった。私の「かくありたし」という姿はどのようなものだろうか、と考えると、人から尊敬されるような人間、少なくとも人から見下されない人間、もっと言えばとにかく褒められたい、ということに尽きるように思われた。要するに何かしら天才的な何者かになりたいのである。これはつまり承認欲求の極地のようなものではないか、という風に思った。「他人から積極的に承認されるような人間になること」が私の自己実現であるらしかった。これは矛盾しているように感じられた。自己実現とは名ばかりの、単なる他者依存のように思われた。そしてなおかつ私は「積極的に他者からの承認を求めるような人間」や「かくありたしという姿を追い求める人間」をあほらしい、青臭いなどと思って嫌悪しているのである。これは一体どうしたことだろうと思った。私の欲求ははち切れんばかりに他者からの承認に飢え、それに依存しているにも関わらず、私の道徳はそれを拒絶しているのだった。全く意味が分からないと思った。それにそもそも「承認」というものがあやしかった。他者が私を承認しているかどうかは、実際良くわからないのである。私が「承認されている」と感じたところで、それがお世辞であったり皮肉であったりするかもしれないのだ。オナニーではないか。自分の都合のいいように捻出した承認を、自己実現の根底に置き、あてにしてしまっていいのだろうか。それがお世辞や皮肉であったともし気付いてしまった時、私は一体どうなってしまうのか。そら恐ろしいではないか。自分の想像上の産物である「他者」に自身の一切の自己実現の根拠を求めることは危ういと感じられるし、虚しいとも感じられた。こんなことではいけない、と思った。自己の内部で苦し紛れに捻出した他者やそれが私に与える承認などを介することなく、私は私自身の道徳や信仰において、何かしら絶対的な自己実現像を持たなければとても生きていくモチベーションを保ち続けられないと思った。ただ、そうするためにはどうしたらいいのかよく分からなかった。私は私のために、とにかく絶対的な信仰の対象が必要なのだと感じた。そうなると宗教に救いを求める気分というのもなんとなく理解できた。しかし宗教で言う神を信じる気には全然ならなかった。そこまでの切実さ(心理的な態度的なそれのことではなく、私の私という自己に対する信仰の敗北)はない。とにかく漠然と、このままではどうしようもない、という気分になっただけだった。

思想

 正社員として働くためには何らかの思想が必要なのだった。もちろん建前として。その会社でなければならない理由や、その業界でなければならない理由が必要なのだった。しかもそれは積極的な理由である必要があった。「金融が嫌なので」と言ってメーカーを志望してはダメなのだった。何かしらメーカーに入りたいという積極的な理由が必要なのである。しかし「メーカーはゆるいから」というのもダメなのだった。これは先の他の業界が嫌なのでこの業界に、という理由に比べれば、この業界がいいです、というので文の形としては積極的ではあったが、その内容が「ゆるいから」では積極性が認められないのである。これこれこういうことをやりたいのでこの業界がいいです、と言わなければならないのだ。これがとてつもなくアホらしいことのように思えた。学生がその業界でやりたいことなど何か思いつくものか。特にやりたいことがないから、既存の会社に入るのである。これこれこういうことがやりたいという「強い思い」などがあるのであれば意地でも起業するのが道理であろう。特にやりたいことがないから、会社員になるのである。確実に建前にしかすぎない思想を構築するのがあまりに無駄なことに思えた。などと書いていて、受験勉強もそうだったではないか、と思った。今後一生使わぬであろう数学の問題の解き方を身につけ、日本の歴史を学び、入試を経て大学に受かったのだが、その内容自体が何か役立ったことがあったろうか。だが、受験勉強自体は割と楽しかった。クソだと思っていたが、楽しかった。着々と何かが身に着いている感じがした。成長の実感という奴だろうか。笑ってしまう。いくら就活をして、志望動機を作ることなどがこなれて来ても、そういう実感は無かった。ごまかし方が上手くなったな、という感じがした。しかしそれは成長の実感というより、堕落の実感だった。

「お前社会舐めてんのか」

 私は笑って頭をかき「いや、そんなことはないんですけどね」と答えるのだけれども、相手方はえらくご立腹であり、舐めてる、バカにしてる、と言ってやまない。のんべんだらりと長々学生をやり、ろくすっぽ就活に本腰を入れず、お前の将来が心配だ、あそこはどうだここはどうだと色々アドバイスをくれるのに、「その会社はよく知らない」「好きじゃない」などと適当な答えを言っていたらそう怒られたのだった。感情的になるほどに我が身を心配してくれている、と考えれば実に感謝にたえぬような気もしたのだが、「社会舐めてるのか」というその台詞は間違っている、舐めていない、むしろ逆である。「社会は厳しい」「食っていくため」「お前は選べる立場にない」「不況」などと盛んに喧伝される社会なるものを舐めれようはずもなく、「そうか、社会は厳しいのか、怖い」「食っていくためにはつらい思いをしなければならないのか、怖い」「おれは選べる立場にないのか、怖い」「不況か、怖い」などと一々私はそれらの言葉に深く納得しているのであり、「そんなに恐ろしく厳しい社会なるものに、根気のない、働く意欲に乏しい、約束をすぐに違える私のような人間が参加させていただけるものなのだろうか、無理だ」という思いから、つまり社会を畏怖しとても尊いものだと考えるその思いから、私は積極的な就職活動というものを拒んでいるのであり、だから「社会舐めてんのか」という言い草は完全に間違っている。私は幸いにして未だニートではないが、多くの若年ニートが抱く悩みというのは、きっと私と同じように、「恐るべく尊き社会に自分などという若輩無能な人間が参加するだなんてとんでもない」というものなのではないか、と睨んでいるのである。「働くなんてバカバカしいぜ。とりあえず生活できるんだから働かなくて何がいけねーんだ」と開き直っているニートはきっと少ない。仮に口から手から漏れたとしてもそれは大体強がりに過ぎない。心の底からそれを主張しているのはphaなどのプロニートか、全てに満足した順風満帆な余裕のある社会人なのではなかろうか。それでも心中「こんな生活が長く続くはずがない」という不安を抱いていることは疑いえない。phaのブログで「ホームレスの人たちを見ると心の中で"先輩"と呼ぶ」などという一節があったような気がする。しかしそのような不安はきっと社会人ならみな抱えているだろう。この生活が続くかどうか不安だという先行きの不透明さに対する悩みは、この不況下の現状とても正常なことであるように思われる。
 プロニートにもなりきれず、社会人にもなりきれない、ただひたすら社会を畏怖し、先行きの不透明さに目を背け、気づけば滔々と流れる変わりなき日々に甘んじている我々のような若年ニート及びその予備軍の問題は、何ら信ずべき行動の指針を持たない、というかそのような信念を持つことがとてつもなくあほくさいバカらしいなどと思っている節があるということである。社会への嫌悪に近い畏怖と歳とを無駄に重ね、漠然とした全人生に対する不安を抱えながら、それをごまかすように目の前にある何かに入れ込むだけで、なけなしに時間が過ぎていく。当然よろしくない。どうにかならないものだろうか。何もしないで、どうにかならないものだろうか。誰かが私をひょいと普通に生きるレールの上に乗せてくれないだろうか。そのレールの上で、とりたてて信念も持たず、目の前の仕事を「仕事」ではなく「作業」として、何の思想も信念も感傷もなく日々遂行していくことで生活が成り立ったりしないものだろうか。しかも人に見下されたりしない形で。いや正確に言えば、私が「人に見下されている」と感じないような形で。このような考えを包み隠さず話すとなればそれは当然「青臭いガキの戯言」とみなされることは分かりきっており、そうやってバカにされることはプライドが許さない。無駄なプライドの高さ。その姿勢は正しく「社会を舐めている」ということに相成るだろう。「一瞬たりとも人に見下されたくないって考えが舐めてんだよ」悩みは誰にも語られず、それゆえ解消したりすることもなく、時折投げつけられる「社会舐めてるんじゃねーよ」「生きるのは大変なんだ」などの正論に腐り、もはや社会への畏怖は嫌悪に変わり、日々自己嫌悪と現実逃避と責任回避の言い訳を頭の中で押し並べている内にふと冷静になる瞬間があって、やはりおれは社会を舐めているのだろうな、と納得するのだが、その納得が現在の好ましからざる事態を何ら好転させることもない。社会を舐めているとか舐めていないとかいうことはあまり問題ではない。社会において自分は肯定的な役割を担っているか否かという自覚が問題なのであって、そしてその社会における肯定的な役割を手に入れるためには、とてつもなく面倒な作業が必要であることが問題なのである。と、また社会の仕組みのせいにした。

3/14

 明け方、7時前ぐらいだったような気がする。tumblrを眺めながら寝転がっていると何度も顔にアイフォーンが落ちてくるので寝る。この夢うつつ状態におけるreblogの成果を翌日眺め、「おれはこんなものをreblogした覚えはないが、さすがおれだ、よくやった」と思うのが楽しい。そういう幸せの感じ方をしている。しかも無料。起きると14時であった。今日はカテキョの日であり、15時過ぎに家を出れば良い。そう考えるとまだ一時間ほど寝ていたいような気がしたのだったが、15時に起きるとなると30分で湯船を張りその間にオナニーを済まし風呂を使っている間にタバコを一本吸い、風呂上りと共に歯を磨いてすぐさま家を飛び出すという慌ただしいスケジュールをこなすことになるのでストレスフルであり、私はもっと優雅な起き抜けのオナニーなどを楽しみたく候、など思うのも束の間、気付くと寝入っていて15時だったので、慌ただしくオナニーをして風呂に入って家を出たのでした。
 起き抜けの体にはコカコーラがとてもマッチングいたしますから、コーラを飲みたいと思ったのでしたが、私は金欠につぐ金欠で、財布の中に250円、これがとりあえずの所持金であり、しかもわかば一箱に消える運命でしたから、コカコーラをぐっと堪えてわかばを買い、改札をくぐったところでSuicaにやや余裕があることに気付いたので、それでCCレモンを買い求めました。CCレモンは青春の味です。初恋の味ではありません。初恋の味はレモン風味のからあげです。もっとジューシーなのだ。
 中央線に揺られました。高校はもうそろそろ卒業式やなにやかやでしょうか。この季節の女子高生には老いを感じます。老いというのが言い過ぎであるのならば、惰性でしょうか。彼女らは惰性で汚い言葉を使い、惰性でお行儀の悪い振る舞いをし、惰性でスカートを短くし、惰性でそのお尻にパンチラ防止の手を添えます。それらが全て老いのように感じました。もっと初々しい汚い言葉や、お行儀の悪い振る舞いや、スカートの短さや、パンチラ防止の手の添え方などを見たいのです。
 カテキョは滞り無く終わりました。最後の定期テストも終え、完全にふぬけておる中1男子と中1女子を厳しく指導する、などということが私にはできず、私もきっとほとんど同様にふぬけておりましたことでしょう。向こうがふぬけるからには、こちらもふぬけなければなりません。いくら気張っても暖簾に腕押しというものです。馬の耳に念仏というものです。しかしふぬけながらも何かしらの成果は必要なので、私は丹念に彼彼女の学校の愚痴を聞いてやりました。部活の先輩に対する愚痴と、学校の先生に対する愚痴です。私も私自身の怠慢に対する愚痴を滔々と述べてやろうかと思ったのですが、暗くなるのでやめました。みんな違ってみんないい、というのが今日の標語です。しかしそれにしても中学生というのは気を抜くとすぐにてんで意味不明な落書きなどを始めますので、それに驚かされます。今日は突如としてテーブルに電話番号を殴り書き始めますので、それはどこの番号か、テーブルに落書きをしたらあかんではないか、と弱々しく怒ったのですが、「いじめの相談はここにするといいらしいよ」とか「あ、テーブルだった」とか、ちょっと酒でも飲んでる感じだったので、とりあえず笑いました。いじめはよくないと思います。

「YUKI まんこ」

 これはすぐに分かりました。「YUKIちゃんのまんこが見たい!」という気持ちがそのシンプルな検索ワードから痛いほど感じられました。しかし寡聞にして私は未だかつて「YUKIのまんこ画像がネットに流出した」という噂を聞きませんので、ここは一つ素人流出モノのまんこで手を打つぐらいがいいのではないか、などと僭越ながら助言を差し上げておきます。しかし仮にもしYUKIちゃんの流出まんこ画像を発見なさった暁には、是非私にも教えて下さい。ファンなんです。