改稿

 積極的なブスに言い寄られる夢を見た。口が臭い。肌が汚い。胸がでかい。それでも私は非常に徳が高く、高貴なので、だって彼女も人間だもの、「いや、間に合ってるんで」「そういうつもりじゃないんで」婉曲にごまかしていたところ、行動力のあるバカが余計な世話を焼いてくれ、私とその積極的なブスをくっつけようと画策し始め、迷惑この上ない。この世は本当にクソだ。思っているうち、天から、見目麗しい、新垣結衣のような女神が現れ、「お困りのようですね、あなたの望みを叶えてあげましょう」「ももクロの赤の足の匂いが嗅ぎたい」女神は悲しそうな顔をして大粒の涙をこぼし、それがゆくゆくは流れとなって大地に満ちた。今我々が多摩川と呼んでいるものがそれである。

 積極的なブスに言い寄られる夢を見た。口が臭い。肌が汚い。胸がでかい。それでも私は非常に徳が高く、高貴なので、だって彼女も人間だもの、「寄るんじゃねえよブス」などと一蹴できずに、「いや、間に合ってるんで」「そういうつもりじゃないんで」と婉曲にごまかしていたところ、行動力のあるバカが余計な世話を焼いてくれ、私とその積極的なブスをくっつけようと画策し始め、王様ゲームであからさまに私とその積極的なブスをキスさせようとしたり、フェラさせようとしたり、クンニさせようとしたりしてくるので、この世は本当にクソだ、と思っているうちに、天から見目麗しい新垣結衣のような女神が現れ、「お困りのようですね、あなたの望みを叶えてあげましょう」と言ってくれるので、「ももクロの赤の足の匂いを嗅ぎたい」と所望すると、女神は悲しそうな顔をして「このグズ」と言った。

AVについて

 もはやVHSよりもDVDの方が記録メディアとしてメジャーなものとなった今であっても、ポルノ映像がAV(Adult Video)と呼ばれ続けているのは不思議なことでもあるが幸運なことでもある。AVというのはAdult Videoの略称でもあれば、Audio Visualの略称でもあり、またそこに映し出されるAnalとVaginaの頭文字でもあり、最も単純に思いつくものであっても以上のような三つの意味を想起させるものであって、偶然にせよよくできているものだと思う。ただAVがAnalとVaginaの頭文字だとすると、そこに決定的に欠けているのはPenisであって、なんとなく片手落ちではないか、といった気分にもなる。少なくとも私にとって、AVにはPenisが必要不可欠なのであるが、そんなことを言い出せばOral(性的器官としての口あるいは快感を表象する声)も必要不可欠であるような気もし始め、そうするとそのAnalやVaginaやPenisやOralを用いてセックスのようなものがそこで行われるわけなのだけど、セックスのようなものにおいて必要不可欠なのは男女という互い違いの性であり、いや別に同性同士の絡みはセックスとして不十分とかいういかがわしい話ではなくて、同性同士がまぐわう際にも、どうしてもどちらかが入れられ、どちらかが入れるという、フィジカルな意味でのオスとメスが、だからそれは男女という生物学的性というよりオスとメスという役割としての性が必要だということなのだけど、繰り返しになるがそれは別に人間のセックスというものがどういうものであるべきかといういかがわしい話をしているわけではなく、AVという映像の物語枠組みにおいて、更に少なくとも私にとって、という限定付きで、AVのカタルシスはオスとメスの凹凸の接合が為され、そのこすりあわせ運動の後に絶頂に達するというプロットの達成にあるような気がしていた。だから何の話をしているのか全然分からなくなってきたのだけど、AVにおいて画面に映るものと同時に再生される音について考えると、AnalとVaginaでは到底足りていないという話であり、それでは今挙げたような要素を全て詰め込むとAVPOMFのような、略称としては非常に長ったらしいよく分からないものになるのであり、NWOBHMという長ったらしいヘヴィメタルムーブメントの略称を思い出したりもするのだけれど、まああまり美しいものではなく、また考えてみればオスとメスという凹凸の接合はあらゆる作品に関して必要なことだったりもするのだろうから、というのは「かみ合わせの良さ」とか「整合性」とかいう言葉で表されるその「しっくりする感じ」というのは、抽象化すれば何かしらのオス端子とメス端子が麗しく接合するということであり、あらゆる作品においてセックスは行われていると言うことだってできる気がし、だからそれはAVと他ジャンルの作品とを線引するものではなく、Oralに関してもそれはあらゆる作品に見られる要素であろうとはまた想像に難くなく、そしてジェンダー論の方々が言われるには、この世界はPenisで象徴される家父長制によって支配されているらしいから、これも取り立てていう必要はない。だから結局AVにおいて特権化されるのはAnalとVaginaであり(A感覚こそが全ての根源だ、とかいう話もあって、それを参照すればAnalも別にAVに特権的なものとは言えない気もするし、そういうことを言うのならばVaginaだって、あらゆる人間はVaginaから産まれてくるのだから、Vaginaもあらゆるものにとって根源的なものだ)、だからAVという呼称は、偶然にしても、よくできている、とそういうことを言おうと思ったのだけど、抽象的すぎてよく分からなくなった。

「直に嗅ぎたいの?」

 着衣の女の顔面騎乗、そこまでは良かった。麗しかった。最高だと思った。しかし「直に嗅ぎたいの?」という台詞は違うと思った。私は別に直に嗅ぎたくはなかった。パンツ越しに嗅ぐのと、直に嗅ぐのと、そのどちらがより興奮するのかと言えば、前者の方が圧倒的に興奮するように思われた。だから違うと思った。その台詞は違うと思う。トンカツから衣を剥ぎとったものをお前は食いたいのか、と問われているような感じがした。食いたいはずがない。トンカツはトンカツとして食べたいのである。顔面騎乗は着衣であるから良いのであって、直の顔面騎乗はSMの領域である。あれは侮辱行為である。私はそんな侮辱を受けたくない。匂いフェチあるいは下着フェチあるいは布に包まれたお尻の柔らかそうな感じが生尻なんかよりよっぽどいいんだフェチの文脈から言えば、顔面騎乗は理想と現実の終着点であり、もっとも幸福な一つの瞬間であり、SMの文脈における顔面騎乗とは遠く離れたところで成立する事柄なのである。だから「直に嗅ぎたいの?」は違うと思った。その台詞は歴然とSMの文脈に裏打ちされており、私はいつもこういった安易なSM文脈の応用と拡張には憤慨しているのである。足コキにしてもそうである。あれもなぜかSMの文脈を呼び込みやすいプレイの一つであり、「足でされてこんなになっちゃうなんて変態ね」などという台詞が思い起こされることだろうが、これもまるで違っていると思った。「そんなこと言われるならもういいです、結構です、バカにすんなよ」と思う。あれは「ほんとに? 足でやんの? えー……やだなあ……、ほんとにこんなので気持ちいいの? えー……」のように、やや変態じみたプレイをさせられてしまうことに対して忌避感がある女に、「いいからいいから、それがいいのよ、ね、お願いだからやってよ」と無理に頼み込んで、嫌々ながらもやってくれる、という流れがあってこそのプレイなのであると私は思っており、そして匂いフェチ的な文脈から言えば、足コキは靴下を履いていなくてはならない。それも靴を脱ぎたての、革靴やブーツを脱ぎたての、ほかほかと湯気が立ってきそうな、そういう足で為されなければならない。靴下を脱いでしまったならば、それはただの湿った臭そうな生足であり、「いいからお前足洗って来いよ、くっせえな」という話であり、しかしちょっと舐めたい気もする。それはまた別の話である。とにかく足コキは靴下を履いていなければならず、顔面騎乗は着衣でなければならない。布越しでなければならない。そういう憤りを感じた。

予め

 あらかじめ、という言葉が好きです。なんだかかっこいい気がする。色々なことを「あらかじめ」やっておけたらどれだけかっこいいことだろうと思う。恋愛する前にあらかじめ恋愛をしておく。童貞を失う前にあらかじめ童貞を失っておく。社会に出る前にあらかじめ社会に出ておく。成功する前にあらかじめ成功しておく。結婚する前にあらかじめ結婚しておく。失恋をする前にあらかじめ失恋をしておく。希望が失われる前にあらかじめ希望を失っておく。どうせ叶いやしないのだから全てをあらかじめ諦めておく。なんてかっこいいのだろうと思います。最悪だ。

括約筋に力を込めている

 私は今正にPCに向かいて中腰になりながらうんこを我慢しています。ふとブログを書こうと思い立って、何を書けばよいのかな、特に何も書きたいことなどないし、しかし書きたいという意欲だけはあるのだ、そういう状況というのはしばしばあることでしょう、例えばセックスがしたいと猛烈に思うそのときに特定個人の顔が浮かんでこないというようなときだって、セックスをしたいという意欲は並々ならずあるのだが、具体的に誰とどういったプレイに及びたいのかということはとても想像されえぬことでして、それはは実際セックスの現場というものに立ち会うまでは決して分からぬことであり、ただとにかく意欲だけはある、というそういう状況において、私は今うんこを我慢している。

検索ワード

 私は検索ワードを見るのが趣味なのですけど、というとつまりこのブログがどのような言葉でもってgoogleなりyahooなりに認識されておるのか、ということが気になるからで、それに加えて若干エゴサーチでもないですけれど、それに似た心性と申しますか、もしかすると私を求めてこのブログに辿り着いた輩がいるかもしれん、それは嬉しいことだ、男であろうと女であろうと、私を求める人間がどこかにいるということはとてもすばらしいことだ、と思うわけでありまして、もし可能であるならば女にモテたいというのは男として当然のことであって、なにもやましいことはありませんから、それで私は毎日毎日オナニーを繰り返しながら、モテたいなあモテたいなあとやっとるわけですが、そうしますと天井裏から「やろうかあやろうかあ」と声がかかるわけですね。はた、と私は手を止めまして、天井を見上げるのですが、見知らぬ天井、なんてことはなく、よくよく見知った天井がそこにはありまして、夜毎「あそこらへんの木の節の具合が顔っぽい」とかやっておるわけなのですが、まあそういった具合でごく普通の、いたって平凡な、よくよく見知った天井でありまして、何事だったのであろうか、と思い、そもそも自分が何故天井を見上げているのかもやや忘れかけるのでございますが、そうしてぼんやりしている内にまた「やろうかあやろうかあ」と声がかかるのでございます。私はうすぼんやりと手塚治虫の「どろろ」なる漫画を思い出しまして、かの物語主人公である百鬼丸という少年が河原ですやすやとお休みになっている折、川上の方から小判の形をした妖怪が、手に持った鈴をチリンチリンと鳴らしながら「やろうかあやろうかあ」と申しながら下って参るのです。それを見たもう一人の主人公でありヒロインでもあるところのどろろがうっひゃーと仰天しぶるぶるぶると震えるわけですが、まあなんと申せばよろしいのでしょうか、なぜ「どろろ」の話などを思い出したのか忘れてしまったのですが、そう、「やろうかあやろうかあ」でございます。その台詞にふと「どろろ」のことを思い出したのでした。その「やろうかあやろうかあ」の声は私の空耳なのでございましょうが、一体なにを「やろうかあ」なのかが気にかかりまして、しかしまあ別にどうでもいいことだなあ、おれは今から希美まゆで抜こうと思うから邪魔立てだけはしてくれるな、おれのオナニーは、一人で、静かで、なんというか満たされた感じで、フィニッシュを迎えたいのである。というわけで私はズボンを脱ぎ去り、パンツからちんこを取り出し、相変わらず包茎だなと思うわけなのですが、そうこの包茎が私のコンプレックスであり、この包茎さえなければすぐにでもソープへ駆け込んで素人童貞にクラスチェンジする所存なのでありますが、素人童貞には素人童貞なりの苦悩があるものらしく、いっそ「単なる童貞であった方がよかった」とさえ言い放つ輩もいるのですから、まあ私はそういう御人を見かけると「非童貞の自慢だ、あさましい」と思うのですが、つまりだから私はとにかくセックスがしたく、まんこにちんこを突っ込んでかき乱れたさでいっぱいなのでありますが、そうこの包茎が私の全人生を貫くのであり、ソープに行かないのは金が無いからだと常に言い訳をしているのですが、まあ金の無さも一つでありますが、包茎だからソープにいかないのだ。それならばなぜ包茎手術に行かないのかというと、こっちの理由は金が無いから、ということになってくるのでございます。結局のところ金なのですが、じゃあたんまりと金があったら包茎手術へ行くのか、と問われると、そんなこともないかもしれない、というような気持ちでありまして、包茎手術に十万ちょい使うぐらいであればその金でもっと色々楽しいことができそうですし、包茎で死ぬわけでもなし、まあセックスができんぐらいのもので、セックスがなんぼのもんじゃ、と思うわけなのですが、ここで私はふと、もしかして包茎であることを言い訳に、おれはセックスを怖がっているだけなのではないか、包茎だからセックスできませんとか言って、そうやってセックスしない自分をなんとか合理化・正当化しようとしているだけなのではなかろうか、ということに気付くわけでございます。だってよく考えてみればセックスするチャンスというのはゴロゴロしており、あの時いっておけばセックスの一つや二つ簡単にできたかもしれんなどと思う局面だって、生きれていれば何かしらあるものです。しかしできなかった。なぜならば包茎だからである。まあなんかどうでもよくなってきましたが、包茎手術がしたいです。それからソープに行きます。天井から聞こえてくる「やろうかあやろうかあ」は嘘なのでどうでもいいです。なんか飽きた。おれは包茎なんだよ。疲れた。