夢日記

 目が覚めると友人の家に居て頭がガンガンしました。なんでおれはここに居るんだっけと不思議に思い、尋ねますと、彼は私の顔を覗きこみながら、ゆっくりはっきりした口調で、昨日飲んでただろ、日本酒をたくさん飲んだだろ、そしたら寝ただろ、いやお前がああいうことを考えてただなんて知らなかったな、そういう人間だとは知らなかった、お前とおれとも長い付き合いだが、まだまだ知らんことがあるんだな、知らなくていいこともあるんだな、見る目が変わったよ、知らなくていいこともあるんだな。
 私は起き上がって枕元にあった漫画をパラパラと読みました。おれは自転車をどこに停めたんだっけという疑問がふと頭をよぎりました。そもそも自転車で来ただろうか。確か駅前に自転車を停めて、駅前というとどの駅前だろうか、国立駅だったろうか、中野駅だったろうか、それとも高円寺駅だったろうか、もしかすると広島駅だったかも知れんし、そもそもこの家はどこにあるのだろうか。よく分からない感じがして、おれは自転車をどこに停めたっけ? おれは自転車をどこに停めたっけ? としつこく尋ねますと、彼は知らんとぞんざいに答えました。ないがしろにされている、という気がしました。侮辱されたような感じがしました。

こんな夢を見た

 カテキョの夢でありました。私は中3女子を教えるという名目でその宅へ向かったのですが、そこへ辿り着くと黒髪ストレートの、いかにもバンギャやってますというファッションに身を包んだ女がおり、私は「最近の中3はすごいな」と思ったもんだったのですが、彼女は私の顔を見るなりぷいと顔を背け、「ちいちゃんカテキョ来たよ!」と叫んだので、「ああこれはお姉ちゃんなのだな、なるほど、高校生であろうか、17歳ぐらい? セックスしたいなあ。マリリンマンソンをBGMに部屋をゴシックに染め上げてアナルを舐めたりしたいなあ」と思いました。
 呼ばれて出てきたちいちゃんという女の子は姉に比すと実に純朴な雰囲気で、例えて言うならば山田花子という感じだったのですが、それほどブサイクでもなく、私は「ブサイクな女の生徒にはつい厳しく、冷たくなる」という家庭教師としてはどうなのかな? という悪癖を抱えておりましたので、職業倫理的にも、また「女子中学生とセックスしたい」という中学時代からの夢がありましたから、「これぐらいなら全然ヤレる」という妙な期待感と申しますか、ようするにスケベ心、そういった二つの意味で安堵を感じました。
 さて、私がちいちゃんに連立方程式などを教えているとバンギャであるところの姉が一々私の教え方に口を挟んでくるのです。「それじゃ分かんないよ」「教え方下手なんじゃない?」などなど、最初は「だよね」「そうかもしれないね」「そうかな?」などと適当に返していた私でしたが、徐々に腹が立って参りまして、「おかーさん、このカテキョ失敗だったんじゃないの?」などと言い始めた折についに激昂しました。「てめえそんなに言うなら自分で教えてみろや!」そう叫びますと、バンギャであるところの姉は最初キョトンとした顔をし、みるみる内に般若のような形相に変わって、「分かったよ。てめえ、そんなに言うんならあたしが教えてやんよ!」とてするすると服を脱ぎ始めました。パンティが意外なほどに子供っぽいピンク色の綿パンで、私は興奮しました。アナルが舐めたいと思いました。マリリンマンソンをBGMに部屋をゴシックに染め上げて。
 バンギャであるところの姉はニーソックスを身に着けていました。パンティを脱いでもニーソックスは脱ぎません。そのあたりがバンギャバンギャたるところで、私はそのニーソックスのつま先のあたりを執拗に舐めたり匂いを嗅いだりしたいと思っていたのですが、彼女は私に近づくとむんずとちんこを握りしめ、ファスナーを開き、ちんこを取り出すと、その右手の人差し指の尖った爪先を尿道に突き立てましたので、「痛い!」と叫んで殴り倒しました。お母さんが「あらあら」と言って笑いました。ちいちゃんは連立方程式が解けないと言って泣きました。私はバンギャであるところの姉のニーソックスとピンク色の綿パンをもらって帰りました。カテキョは首になりました。そういう夢でした。

日記3

 顔面騎乗と水色のパンティの話はまあどうでもよくって、斜め前に座った女の子が、これまたあんまりかわいくなかったんですけど、ミニスカで、座るときにパンツ見えるかなあと思って凝視してたんですけど、見えなくて、焦れた。で、女は顔じゃなくて下着だとさっき言ったような気がするんですけど、女はふとももでもあると思うんですよね。それで、その女の子のふとももをずっと見てたんですけど、この暑いのに鳥肌が立っていたんですよ! なんでこのクソ暑いのに鳥肌を立ててるんだろうこの女は、もしかするとインランなのではないか、インランなブス、と思って、ぼくはちょっと笑ってしまいました。楽しかったです。

日記2

 それで、なんかめんどくさくなってきたからもう書くの止めようかなと思ったんですけど、日記だから最後まで書かなきゃいけないよなと思って、書き続けるんですけど、水色のパンティの女の子はあんまりかわいくなかったです。タンクトップの上によく透けるシャツを被っていて、そのシャツっていうのはブラウスでもTシャツでもなくて、ああいうのをなんて言うのかよく分かんないんですけど、肌に優しそうな生地の、なんかダルダルしたシャツがあるじゃないですか、襟周りがダルダルしていて、なんかこう歪んでいる感じが多分オシャレなんだと思うんですけど、とりあえずそのシャツからピンクのブラ紐が透けていて、ぼくは別に女の子は顔じゃなくて下着だと思っているので、上はピンクのブラで下は水色のパンティとか最高だなあと思って、匂いを嗅ぎたいなあと思ったんですけど、その子はジーンズを履いていまして、この暑い日にピッタリとしたジーンズ! それは色褪せた、よく履きこんだような風合いのブラックジーンズでしたから、きっと何日も洗濯なんかしていないだろうことが予想され、その膝裏とか股のあたりとかの匂いを嗅ぎたいなあ、顔をうずめてぐんぐんと嗅ぎたいなあと思って、顔面騎乗に憧れているんですよ、ただ、よくAVとかでやってる、まんこに直とか、パンティに直とかはなんか嫌で、よく履きこまれたジーンズ越しにやるからあれはいいんだ興奮するんだと思っていて、まあ実際やったことないから分かんないんですけど、ジーンズ越しの顔面騎乗は多分主に汗の匂いがすると思うんですね、だってまんことジーンズの間にはパンティ履いてるわけですから、まんこの匂いはメインではしないと思うんですよ。汗の匂いが八割、小便の匂いが15%、残りの5分がきっとまんこの匂いだと思うんです。汗のニオイを掻き分けて一瞬通り過ぎる女の匂い……、そういうことを想像していまして、だからぼくはジーンズ越しの顔面騎乗というものに憧れてるわけですけど、それから水色のパンティですよね。パンティは水色に限ると思うんですよ。なんで黒とか紫とか履くんだろう。意味が分からないです。まあ別にぼくに見せるために履いてるわけじゃないからいいんですけど、みんなちがってみんないい。それで、そのピンクブラ水色パンティの女の子はほんとうに全然かわいくなかったので、まあ別にどうでもいいです。

日記

 卒論を書かねばなるまい、と思ったので卒論を書いておりましたが、書いては消し書いては消しの一進一退で、そうこうする内に日が上り、こんなものはやめだやめだ! と私は考えました。そうだ、オナニーをしよう。一日の始まりに爽やかな朝日を背中に浴びながらするオナニーは、そう、とても虚しいんだ。そのように思うのですが、私の手はあまりにもこなれた動作でxvideosを開き、その検索窓に"japanese schoolgirl"と打ち込みました。それから適当な動画に目星をつけて抜きました。大沢佑香だったと思います。大沢佑香のことをぼくはあまり好きません。血の通ったダッチワイフのような感じがします。なんだ、最高じゃないか。しかしそれにしてもまあこのところ日々のオナニーに心が籠っていないような気がし、私は大変憂鬱な気分になり、けれどもね、射精するってのはどんなときだって気持ちのいいものなんだ。みんなちがってみんないい。だからよかったです。それから寝転がってiPhoneをいじっていたらいつの間にか寝ました。
 お昼ごろに起きました。確かまずタバコを一本吸って、もう無いではないかと思い、この一本は大事に大事に心を込めて吸おうと決意したのでしたが、半分ぐらい吸ったところでイライラしてきて揉み消し、昨晩入れっぱなしにしていた冷めきったコーヒーを飲んで、コカ・コーラが飲みたいと思い、それから風呂に入って、ちんこの皮を剥いたり戻したりしてしばらく遊んでいる内に、なんだかムラムラとして参りまして、オナニーをしようかなあと思ったのですが、講義の時間が迫っており、それを思うと少し気分が萎えたのですが、なんとなく昨日のオナニーが不調であったこともあって、おれはなんとしても理想のオナニー盗撮動画で抜いてからではないと家出る元気が出ない、とは思えども、それは勘違いで、とりあえず頭を洗おうと思ったのですが、石鹸がなく、石鹸を買わないといけないな、と思い、洗顔フォームで頭を洗って、ついでに顔を洗った。風呂を出てジーンズを履きました。ジーンズは膝の部分が破れていて、注意して履かないとそこに足先を突っ込んでしまって、膝の部分がビリビリと、また大きく破れてしまうので、破れたジーンズはだらしがないという割と古風な価値観を持っていますから、ただね、しかし、破れたジーンズは結構涼しいのだ、だからとりあえずぼくは破れたジーンズを履きました。それから胸の部分にでかでかとRED HOT CHILI PEPPERSと書いてあるTシャツを着たのですが、このTシャツはちょっと丈が短くておまして、少し体を捻ると私のかわいらしいお腹や背中が見え隠れしてしまい、ちょっと恥ずかしいので、その上に趣味の悪いアロハシャツを着ました。そういえば今日は暑かった。
 大学へ出向く道すがらタバコを買い、飲み物を買おうとする私の心を押しとどめ、いいか、お前は金がないんだぞ、全然金がないのだ、ペットボトル飲料などを買っている場合ではない、そう、戒めまして、タバコだけを買って、その私の自制心に惚れぼれとしながら、チャリを大学へ走らせ、すれ違った動物病院のお姉さんがかわいかったので、結婚したいなあと思ったんですけど、結婚したいというかアナルを舐めたいと思った。真面目そうなひっつめ髪の、メガネを掛けていた、少し背の低めな、お姉さんでしたけど、どんな顔をして嫌がったり喜んだりするのだろうか、ということを考えている内に大学に着きまして、大学生がわらわらといる空間に絶望的な気持ちになった。ただ、暑いので、肌の露出が多く、それは喜ばしいことのように思えたのでしたが、なんだか気分が滅入っていて、それを見て喜ぶ暇もなく、講義室へ向かいますと、人もまばらであり、ややホッとしたのでしたが、時間が経つにつれて人が増えて参りまして、あっちでもMacbook Air、こっちでもMacbook Air、なんだ君はAcerか、いいね、結婚しよう。前の方に座った女の子の腰の上から出ている水色のパンティを見ながら、オナニーしたいオナニーしたいということばかり考えていました。

泣く

 なんとなく眠れずにぼんやりしていたのだけど、今親が死んだら泣くかなあということを考えました。同居してた祖父が死んだ時は別に泣かなかった。高校生だったから捻くれてたのもあり、周りが泣いてるの見て憤りすら感じていました。歳なんだから死んで当たり前だろ、なぜ泣くのだ、泣いている自分に酔ってんだろ、忌まわしいわと若々しいことを思っていました。無感情な俺はクールだ、というあの気分です。まあそれはいいんですけど、そういう尖り具合もある程度抜け、感情に動かされるのも別に悪くないというかむしろ良いとすら思う現状にあっても、別に親が死んだぐらいじゃ泣かんだろうという気がした。例えば今急に電話がかかって来て「親父が死んだ」と聞かされても、「あ、そうなの」と思ってしまいかねない気がする。まあ糖尿だし、タバコやめねえし、酒もやめねえし、割と無茶する人だからなあ、どうせ酒飲みながら辛いツマミ食ってタバコパカパカ吸ってたんだろう、それで裸踊りとかした日には死んでもおかしくない、そりゃ死ぬわと、ごく普通に思う気がする。まあ実際そうなってみないと分かんないですけど、案外目の前が真っ暗になって取るものもとりあえず着の身着のまま家を飛び出して駅のホームで始発を待って焦れたりするのかもしれませんが、とりあえず今のところ電話を取って親父の死を知ったぐらいじゃあおれは泣かない気がする。葬式のために新幹線で四時間かけて実家に帰るのがめんどくせえなとすら思いかねない。実家を離れて暮らしていると死んだと言われたところでさっぱり実感が沸かない。じゃあとりあえず家に着いて親父の死に顔を見て納得しそこで泣くかというとそこでも別に泣かない気がする。納得はする。あの知らせは本当だったのだなあと思う。「きれいな顔してるだろ、死んでるんだぜこれで」とかいう台詞を思い出したりするかもしれない。で、多分きっと周りがめそめそしてるのを見て「やめろや辛気臭い」とか思うはずである。昔ほどのあからさまな嫌悪感ではないにせよ、やっぱり人は死ぬものなのだからこれだって別に当たり前の、尋常の出来事であって、まあそう泣かんでもええやないか、と思う気がする。そんでおれは結局そういう感情が薄い人間なのだ、とかいうことが言いたいわけではなく、割と涙もろい方の人間で、今年の箱根の早稲田だったっけ、山の神がいるとこ、中央か、まあなんでもいいのだけど、あれが「雪辱を果たす」とかそういうドキュメンタリータッチな映像を見せられてうるうるしましたし、甲子園で敗退した高校球児の悔し涙を見てうるうるしますし、震災関連の悲しいドラマとか聞いてもうるうるしますし、グレンラガンで泣くし、白鯨伝説でも泣くし、とらドラみたいなラブコメでも泣くし、君が望む永遠というエロゲをプレイしたところ自分が死にたいぐらい泣きましたし、こないだに至っては非常にどうでもよい30P足らずのエロ同人を読みながら泣きました。というわけで私はいつなんどきでも泣く準備はできているのですが、こと親の死とかいうその事実だけではとても泣けるものではない。それは小説に例えて言いますと冒頭の一行目に「父親が死んだ」の一文があって、はいこれで泣いてください、みたいな状況であって、知らねえよ、そんな事実だけ提示されて泣くわけねえだろ、という話で、親が死んだという事実を聞くことはきっとそういう感じで、「そうか」と思う他ない。それできっと姉あたりが色々話すわけですよ。どういう状況で死んで行ったか的な割と事実関係の列挙的なところから、お前が帰省するたびに一緒に酒を飲むのを楽しみにしていたとか、山岳部に入った孫と一緒にキャンプに行くのを楽しみにしていたとか、そういう物語的なものを語って聞かせられることで、ふと親父の声や顔つきが思い出され、それに付随した過去の出来事が思い出され、そこでようやく泣くのかもしれんなあ、ということを考えており、だからきっとぼくは親が死んだ物語に対して泣くのですが、親が死んだ事実そのものに対しては泣かないと思います。まあみんなそうか。いや、だからなんでこんなことを考え始めたのかというと、よくこうドラマとか映画なんかで女が死んで、その女の男が彼女の死体を腕に抱いて、胸に顔を埋めてワーッと泣いたりするけれども、あれを見る度に「ありえないなあ」と思って醒めてしまうので、なんでそれがありえないのか、醒めるのか、ということを考えていたら、その男がただひたすら機械的に女が死んだ事実に対して条件反射のように泣いているように見えるところ、物語ではなくて事実に対して感情を動かす人間というものが全く意味がわからんと思ったのでありまして、フィクションにおいて「泣く」という行為は、そのキャラクターが事実そのものではなくその事実が置かれてしかるべき文脈とか物語とかいうものに対して泣いているのだ、ということが解るに作られなくてはダメなのだなあと、そういうことを考えておりましたわけで、まあ別にどうでもいい話だ。

フェティシズム

 それが宗教/経済/性の三つの文脈で使われる言葉であるということを知り驚いた。しかも宗教の文脈でそもそも考案された概念で、続いてマルクスが経済の文脈にそれを応用し、それからビネとかいう人、そしてフロイト精神分析という流れであるらしい。フロイト説は以下。

 まず、男性は幼児のころ母の性器を見るが、彼女にペニス(ファルス)がないという事実に衝撃を受け、この事実(母にペニスがない)を否認する。だからといって、ペニス(の代理)は母の性器に登場するのではない。そこからずれたかたちで――つまり、身体の部位や衣服などに――母のペニスとしてフェティッシュが生じるのである。これによって、子供は去勢の恐怖に打ち勝つ。なぜなら母にはペニス(フェティッシュ)があるからだ。フェティッシュは「去勢の脅かしの勝利であり、この脅かしから守ってくれる」存在なのである。ペニスの欠如の否認は、一方で女性器の嫌悪に、他方でフェティッシュへの性的欲望を生み出す。こうした否認は、フロイトによると完全ではなく、事実の否認と承認の両方、つまり両極的態度が認められるのが一般的だという。
フェティシズム論の系譜と展望』田中雅一(京都大学学術出版会)

 あまり納得できない話で、深層心理的に、無意識的にそうなのだと言われると「そうか」と思う他ないが、個人的な実感として「母にペニスがない」という事実なんぞより、「女性から私に向けられる愛情なんてものがない」という事実に端を発しているのではないか、という気がする。それは別に自虐とかそういう話ではなく、感情全般が「本当の気持ち」とかいってまるで実体であるかのように扱われるが、感情に実体なんぞ無いように思われるからである。例えば、今までなんとも思ってなかった女がちょっと気のある素振りを見せたりすると、「あれ、この女おれに惚れてるんちゃうの。っていうかおれがこの女に惚れてしまうかもしれん」みたいに思うわけであって、感情に実体は無い。私と誰か(もしくは何か)との関係において、瞬間的に発火するのが感情であって、それは実体ではない。「本当の気持ち」などない。それに加えて、相手の内部で発火しているのだろう感情と、相手の身振りや仕草を通して"予測され"私に感じられる感情との間には、根本的な断絶がある。他人の気持ちなど分からない。いくら私の目に好意的な行動と映ろうとも、それは嫌味なのかも知れないし、何も考えていないかも知れないし、好意と悪意が混濁した状態だってあるだろう。
 だからそういった意味で、実体として確固たる「愛情」が無いということ、ふとした瞬間に相手から私に対する「愛情」なり「好意」なりと受け取られるようなものがあったとしても、それが所詮虚しいものであるということ、そういう「愛情の実体のなさ」という事実を否認する。それがフェティッシュであるように思われる。女の体臭が、肌に触れる体温が、濡れた陰部が、首に回される手が、近づいてくる顔が、それぞれどのような感情(ないしは空虚)の下に動いていようとも、その肉という物質自体に何ら変化はないわけであり、風俗嬢の身体も、恋人の身体も、大した違いはない。その所作が、いかにも「愛情」や「好意」を、表面的に表象していればそれで満足できる。というか、それ以外に満足のしようがない。
 などと諦めきったことを言いながら、その実私は「本当の気持ちがない」ということに絶望に近い怒りを感じる。なぜ「本当の気持ち」という実体がないのか。なぜ「本当の愛情」に基づいた肉体が無いのか。なぜ私の"予測した"感情と、誰かの内で発火する感情とがイコールにならないのか。「愛情の実体のなさ」を否認するということは、「愛情には実体がある」という願望(錯誤)であって、フェティッシュはそれが錯誤でしかないということに対する怒りによって支えられている。体臭と体温と縋り付いてくる手に途方も無い欲情を覚えるが、フロイトが言うように確かに事実の否認は完璧ではない。事実は事実としてしんどく胃に刺さって痛い。肉であれ挙動であれ衣服であれ、何に執着してもずっと痛い。